以前にも少し触れた話題だが、三島由紀夫の研究者としても知られていた文学者、
故ドナルド・キーン(2019年96歳没) は1956年に近代能楽集『班女』の翻訳を通じて
知り合って以来、二人は交流を深めて行った。キーンは1941年12月、日米開戦に伴い
米海軍日本語学校に入学、正式に日本語教育を受け、情報士官として海軍勤務し、太平洋
戦線では通訳官を務めた。
【ドナルド・キーンと懇談する三島由紀夫】
三島は、自決の1970年11月に正に遺書とも言うべき手紙をキーン宛に書いていた、
『前略、小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました(中略)
小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました』と。
日付け無しで11月とあるのみの 此の手紙は郵送ではなく三島の自刃後、三島瑤子夫人
から直接キーンに手渡された。
手紙の末尾には
『この夏下田へ来て下さった時は、実に嬉しく思ひました。
小生にとっての最後の夏でもあり、心の中でお別れを告げつつ、
楽しい時を過ごしました』と。
因みに、三島は毎夏静岡県下田市の東急ホテルで家族と共に休暇を楽しんでいた。其処
に自決の年の8月、キーンを招待したのだ。
【2009年三島由紀夫文学館開館10周年講演会にドナルド・キーンが出席していた】
キーンは述懐している、曰く『ホテルで三島さんは豊饒の海を書上げたら、死ぬ以外
には何もないと言うのです、彼も笑い、私も笑いました。トンデモナイ話ですからね』
その翌月9月キーンが日本を離れる日、三島は朝10時発の帰国便に間に合う様に羽田空港
まで見送りに行っている。血走った眼で髭も剃っていなかった、三島は毎晩零時から
朝6時迄仕事をする習慣だったから。
そして、此れが二人の最後の別れとなった。
(参考文献:悼友紀行/三島由紀夫未発表書簡/三島由紀夫研究年表/三島由紀夫全集)