三島由紀夫の研究者としても知られていた文芸評論家であり文学者の 故ドナルド・キーン

(Donald Keene平成3196歳没)は昭和31年に近代能楽集『班女』の翻訳を通じて知り合って

以来、二人は交流を深めて行った

 

           

     【二人は昭和31年以来の交流】          【三島由紀夫が提案した漢字名

 

昭和16年12月、キーンは日米開戦に伴い米海軍日本語学校に入学し、正式に日本語教育を受け

情報士官として海軍勤務し、太平洋戦線で通訳官を務めた。

彼は後々日本国籍を取得したが、自分の名前ドナルド・キーンの当て字「 怒鳴門」を名刺など

にも使用していた。 因みに国籍を取る際に、登記した名前はカタカナで日本式に姓名の順に

「キーン ドナルド」 とした。

 

この漢字名は三島が、彼宛の手紙に初めて書いて送ったものだが、これに対して彼は、三島由紀夫

に当て字、「未死魔幽鬼尾」様、と書いて手紙のやり取りをしていた。 

彼は偶に 「奇院」(キーン) も使用していた。

  

                                 

                                                                                       【近代能楽集】 

 

昭和45年、自決の年に三島は、『小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました』 と、

ドナルド・キーン宛に遺書を書いていた、 三島の自刃後、彼は瑤子夫人からその遺書を受取った。

魅死魔 ”死に魅入られた” とは余りに暗示的、そして自戒的過ぎると思う。

 

遺書には文士よりも武士として死にたいとあったが、キーンは三島の自決したその夏に、実はもう

書き上げていた 「豊饒の海」最終章を見せられたのだ。

その際、三島は 『一息に書いた』と、原稿を手渡したが、キーンは最終章の先読みはしないと一読

もしなかった。 三島の遺書には「豊饒の海」の海外での翻訳出版を依頼しており、キーンは三島が 

サムライとして死ぬのは不可能だった」 と、後々語っている。

そして、 彼は平成20年外国人の学術研究者として史上初めての文化勲章を受章した。

 

                

   

          【三島由紀夫文学館開館10周年記念フォーラムのポスター 平成21年11月21日】

 

私事だが、平成21年11月21日に、「三島由紀夫文学館」で文学館開館十周年フォーラムがあり

行ってきた。 キーン横尾忠則、の2人の講演会があったが、 キーン曰く、三島が自決する2ヶ月前

の昭和45年9月三島と2人で六本木の本屋、誠志堂に入った際、“豊饒の海”四部作の一つ「暁の寺

の大きな広告が店内に張り出されていた、三島はそれをとても喜んだ、一方で 「実は此の本の書評

が一つも出ていない」 と寂しそうでした、と。   キーンは、 『文芸評論家たちは皆、三島ほどの文豪の

作品の批評を書くのは畏れ多く、且つ、評論家自身の力量にも係わる問題なので、易々と書けないの

です』  と.。 成程、成程と、納得したものでした。

 

                                       

                                        【山中湖畔の三島由紀夫文学館

 

(参考文献:悼友紀行/思い出の作家たち/三島由紀夫研究年表)