前回は三島由紀夫が21歳の時のお相手の紀平悌子さんに就いて書いたが、今回は三島が29歳

の時、正に相思相愛の相手だった豊田貞子さんに就いて書いてみようと思う。

 

         

 

三島由紀夫自身、お付合いのあった人たちを小説のモデルにしている事が結構あるのだが、勿論

其の儘私小説として描いている訳ではないが、いついつお付合いしていた何々さんをモデルとして

いると容易に推定出来る作品が結構あるのだ。そして小説にする前や、又完成後に三島自身が

今度の小説XXXは君をモデルにしているよ』と本人に伝えている場合もある。

 

三島文学愛好者の中では良く知られているが沈める滝』の主人公の菊池顕子のモデルとなった

豊田貞子さんはもう一つの短編『橋づくし』の料亭の娘、満佐子としても登場している。実際に彼女

赤坂の高級料亭『若林』のお嬢さんで、昭和297月三島は歌舞伎座のお兄さんと慕っていた

中村歌右衛門の楽屋に偶々来ていた19歳の貞子さんを見初める

彼女は料亭の娘故に呉服屋の番頭さんが毎日の様に訪れ、着物・襦袢・帯・帯揚げ・帯締め等を

誂えて、そしてお昼頃には髪結さんに行き、料亭のお客様でもある歌舞伎役者に「楽屋見舞い」と

してお弁当を届けたりするのが日課なのだ。

 

貞子さん曰く『公威さんに言われる儘に日毎に会いに出掛けたのも、恋を知り染めた若い女

らしい情熱なんかではなく、10歳も離れていましたので、もう立派な小父さんにしか見えません

でしたから、…. ボディビルの稽古を始めたのもこの頃でしたよ。筋張った身体なんかになる

よりも、女の私から見て公威さんの容貌で良かったところは澄んだ目としなやかで形の良い指

でしたのに…….』そして“おもしろいほど、書けて書けて、仕方がないのだ”って言うのが当時、

公威さんの口癖でしたもの』

そして特筆すべきは貞子さんと交際していた頃に名作『金閣寺』を書いているのだ、

 

『公威さんから結婚してくれと正面から言われた事はありませんが、お付き合いを始めて間もない

頃に、子供を産んで欲しいとは言われました。私の返事ですか?“いやあよ”と申しました』
『公威さんとの事が私の心の中で重荷になり始めたのは、この頃からだと思うのですが。私の身

の回りの事も、いつの間にかすぐ小説になったりしますしね。迂闊な事は言えないと思う様にも

なるし』 2人が夫々結婚後偶然日比谷で擦違うのだが、その際にナント三島は『僕と一緒に行こうよ

と、しかし貞子はそうはしなかったのだ。直接2人が顔を合わせたのはそれが最後になった。

三島と離別後、貞子さんは財閥系御曹司で放送局勤務の後藤氏と見合い結婚した。

2人にとっても最初で最後の真の恋人だったのだろう。


この辺やり取りは、岩下尚史氏の貞子さんとのインタビューを基にした著書「直面 三島由紀夫若き

日の恋」に詳しいが、天才的大文豪、三島由紀夫も女性に対しては凡夫と何ら変わらない事に何故か

安心させられるのだ。

 

(参考文献:三島由紀夫研究年表/直面三島由紀夫若き日の恋/彼女たちの三島由紀夫)