三島由紀夫は今年が没後丁度50年となるので時折本ブログに三島に纏わること等書いてみたい

思う。三島は太宰治と松本清張が嫌いだと公言しているが、太宰に就いては『私が太宰治の

文学に対して抱いている嫌悪は一種猛烈なものだ、第一にこの人の顔が嫌いだ。第二にこの人

の垢ぬけないハイカラ趣味が嫌いだ。第三にこの人が自分に適しない役を演じたのが嫌いだ。

女と心中したりする小説家はもう少し厳粛な風貌をしていなければならない』と自身の評論

「小説家の休暇」に書いているのだ。 そもそも三島も太宰も良家のお坊ちゃま育ちで同じ東大の

先輩後輩の関係で何処か相通じるものを感じて反発していたのかも知れない。

三島が23歳の時38歳の太宰と東大の飲み会で一緒になり酒飲みの太宰と下戸の三島が当然乍ら

作家同士全然会話にならず同席の皆から冷ややかな眼で見られた等などもあり何となく気拙い

雰囲気だったとのエピソードもある。 

が何れにせよ三島は自身の日記的評論に嫌いだと書いている以上そうなのでしょう。

 

それともう一人の嫌いな作家、松本清張だが、1963年に中央公論社の当時の嶋中社長が

「日本の文学」と云う企画を発表、其の為に編集委員として三島の他に、川端康成、谷崎潤一郎

大岡昇平、高見順、伊藤整、ドナルドキーンに依頼したが、「日本の文学」は近代文学と現代文学

を網羅するので如何なる作家作品を選定すべきかとの選考会で三島は松本清張の作品はこの

企画には相応しくないので入れるべきでない、入れるなら編集委員を辞退しますと明言したのだ。

当時清張は1957年に“点と線”“ゼロの焦点”、1960年“日本の黒い霧”と矢継ぎ早にベストセラー

を放ち一躍注目の作家になったのだ。

 

三島自身も本来の純文学以外に大衆小説的な“青の時代”“金閣寺”“愛の渇き”等の如き当時

の事件をベースに事件小説とも云うべき作品を書いており、 1959年には戦前の外務官僚の

有田八郎の都知事選(社会党から立候補)に絡んだ実話をベースに“宴のあと”小説を書いた、

有田と料亭「般若苑」の女将との関係を綴ったものだが、女将が選挙資金を作ろうと料亭を売却

しようとした云々実名ではないものの容易に有田八郎がモデルと分かる訳。結局有田は対立候補

の東龍太郎に僅差で敗退するのだが。その後有田は三島由紀夫と新潮社を相手取り告訴し

三島側が敗訴、即三島は控訴するが翌年1965年有田が他界した後和解となった。

 

閑話休題、 

此の様な事件をテーマした三島の小説は文芸評論家などの受けも芳しくなかった事もあるのか

矢張りこの種の事件小説に限って云えば世間では松本清張が引張り凧であり、戦後のGHQ

情報機関の謀略が背景となる“下山事件“や政界の黒幕を描いた「日本の黒い霧」等は当時の

流行語にもなる程だった。そんな状況で三島は大衆小説に関しては清張に対しては内心忸怩

たるものがあったのだろう。 何れにせよ”金閣寺”は明らかに純文学の範疇であり三島がこの

作品で狙ったと云われている清張作品の様な事件小説ではあり得ない。