以前自分はなにかに導かれているように思う、なんてことを書きましたが、人は生まれてくる前にどのような人生を生きるのか、計画を立てて出生するという話があります。もちろんほんとうのことかどうかなど、わたしにはわかりようがありません。けれどももしそれが事実ならば、この不条理に見える人生にも、なんらかの意義やら意味なんてものがあるような気がしてきます。このようなプランニングを「魂の計画」なんて呼ぶようですが、もしそんな計画があるならば、自分の人生はなんとよくできているのだろう、といささか感慨を覚えてしまいます。
ところでわたしのブログのタイトルは「喧噪の中での隠遁生活」となっていますが、これはわたしの現在の在り方が、隠遁者と呼んで差し支えないものと思えるからです。隠者というのは「俗人との交際を絶って山野などにひっそりと隠れ住む人(広辞苑)」という意味ですが、確かに他者との関わりを断って、独りで生活を続けています。とはいえ、生活のために仕事をしているので、仕事上での他人との関係は避けられません。けれどもそれ以外の自由な時間は、誰とも交流することなく孤独に生きています。寂しいという感情がまったく無く、むしろ安穏でい続けられているうえ、この独りでいる時間というものが自分には必要なものとなっています。ですから孤立無援に陥っているというのとはまた異なります。
なぜ独りでいるということが、自分にとって必要なのか。それはひとえに自分と向きあうためだと思っています。自分と向きあい自分と対話する。このプロセスがわたしにとって重要な意義を持っているように感じられるのです。先ほど記した「魂の計画」がもしほんとうにあるならば、わたしは独りとなって自分と対峙するために、このような生き方をするよう計らったのでしょう。魂の計画というのは、魂を成長させるために立てられるそうです。そうであるならば、魂の成長過程において独りとなって自分と向きあうことこそ重要な過程となるはずです。
なんでも仏教では、悟りに至る過程で孤独な時期というものを経験するとか。わたしも悟り直前なのでしょうかね(笑)。けれどもそのような高尚なことではなく、単にスキゾイドパーソナリティ障害なのかもしれません。それはともかく、ブログを立ち上げていろいろ思っていることを文章化することは、自分自身と対話しているという感覚があります。もちろんネット上で公開するので、不特定多数の方がたに読んでいただけるような文章を書くように心がけています。またわたしの書く記事内容を、参考としてくださる方がたがいらっしゃると、望外の幸いであると喜ばしく思います。ただそれだけではなく、内観するためにブログ記事を書くことが有効な手段のように思えるのです。ひょっとしたら鴨長明や兼好法師と同じような心境で文章を書いているのかもしれません。