現在ほど生き延びる、ということを念頭に置いていなければならない、という時代は実に久しぶりなように思えます。もちろん長い歴史を鳥瞰すれば、危機意識が時代を動かし続けたと言えるかもしれません。それはそうと今は過去のどの時期とも、絶望的状況の意味合いがいささか異なるようにも見えます。まず社会全体に危機感というものが希薄に見えます。これはまあ、非常に具合が悪いわけで、ある日突然抑え続けていたものが噴出するように、大混乱が惹起されてしまうことが必至となるのでしょう。生存戦略など念頭になかった人びとが、突然自身の死を意識させられる状況ほど、始末に負えないものはありませんし。
時に生存ということに関しては、わたしはすでに諦めているというか、それほど深刻には受け止めていません。いつ自身の生が終了しても、別に構いはしないといったところでしょうか。ただ、自分なりにできるだけのことはしているつもりです。可能な限りの対策はしていますが、それでも全く不充分な印象はぬぐえないし、それ以前に人はどれほど生き残ろうと努めても、その生を全うする時期が来たならば、この世を去る以外にないでしょうから。
わたしはずいぶん昔から、何かに導かれている、という感覚を持って生きてきました。この感覚はまた、何かに生かされている、という意識にも繋がっています。その「何か」がどのような存在なのかはわかりません。潜在意識なのか、スピリチュアル方面で言うところのハイヤーセルフなのか。宗教的観念に敏感な方ならば、神とおっしゃるかもしれません。わたしはなんとなく、自我意識を存在させている大元の意識があって、それがその「何か」にあたると考えています。ともかくもそのなんらかの存在が、わたしの生と死を規定しているという観念があるのです。ですからわたしは、どれほどに絶望的で自身の終焉を覚悟する以外にない状況でも、その何かによって生き延びることになるだろうし、またいかに平穏無事でも、突然生を終えることにもなるだろう、と見定めています。
このような自己認識って、なんだか「人事を尽くして天命を待つ」という格言を想起させます。やはり過去の時代に生きた人びとも、何かに導かれている、あるいは何かに生かされている、という感覚を持っていたのでしょう。そして自分は天命によって、自分の生を生き抜くのだと意識していたと思います。人は誰もが生まれる前に、どのような人生を歩むのか計画を立てるという話があります。もしそれがほんとうならば、天命に従うとはまさに人生の計画に則って生きることに他ならないのでしょう。わたしはこれからの時代状況を生きるため、できる限りのことはしてきました。あとはわたしを導き生かしている何かに、わたしの今後の在り方全てをゆだねる以外にはありません。
時に天命というものがあるのなら、自分の天命というものを知る方法はあるのでしょうか。わたしは「自分との対話」が、自身の人生でなすべきことを知るための意義のある行為であると思っています。自分との対話なんて、どうすればできるのか、と疑問を持つ方がいらっしゃるかもしれません。これはそう難しいことではなく、例えば日常経験するちょっとした出来事を書き記すていどのことでも、自分の内奥にあるものを直観的に把握する契機となるでしょう。ブログにて毎日の生活で体験するささやかなハプニングや、なんとなく考えていることを綴る。これがけっこう人生を深める手段として有効なのではないか、と思うのですけどいかがでしょうか。