令和5年8月の補正予算として1千8億円の補正予算まで出し「ワクチン大規模臨床試験」の公募事業を行い、次のパンデミックへの「ワクチン生産体制強化」の”国際共同治験(グローバル治験)”を名目として経産省が資金を、国と自治体は自国民の命まで差し出しているという悪夢のような状況が続いています。

 

国際共同治験(グローバル試験)について解説 (media-ctms.com)

 

 

「実験用のサル(カニクイザル)の値段が高騰しており、日本人を使って(日本を)医薬の治験大国にしている」という鋭いご指摘もありますが、今も昔も日本は米軍の最先端兵器の人体実験場となってきたといえます。

 

実験用サルの価格、コロナ流行前の5倍に高騰…中国輸出停止の影響か「20頭で1億円以上必要」 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

 

 

https://x.com/MdHosokawa/status/1771467073165607203?s=20

 

https://x.com/emblemer2022/status/1770279270784590006?s=20

 

 

何度も言いますが、mRNA製剤は元々は米国防総省が開発した生物化学兵器の「デュアルユース」であり、つまり生物兵器そのものなのです。

 

懸念を軽減するためのオプション - 合成生物学時代のバイオディフェンス - NCBI Bookshelf (nih.gov)

 

この戦争の実像②~mRNA技術は常に生物兵器のカテゴリーであるデュアルユースに指定 | eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy) (ameblo.jp)

 

HIVの遺伝子が4カ所組み込まれた武漢ウイルスはNIHのDrファウチの協力で作られたものだった | eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy) (ameblo.jp)

 

 

■第二次世界大戦末期に広島と長崎に原爆が落とされた理由

第二次世界大戦当時、日本に実際に落とされた原子爆弾はヒロシマとナガサキの「リトルボーイ」と「ファットマン」の2発ですが、米国は1945年4月28日付の公文書で以下のような17の都市を原爆の投下の候補地とし、同年5月の会合でリストが修正され、有力候補順に京都市、広島市、横浜市、小倉市、新潟市に絞られていたそうです。

「京都は、大都市でまだ空襲を受けていなかったため、(原爆投下の)最有力候補に挙げられていた」

 

 

「同じくまだ空襲を受けていなかった広島は、中心部に大きな軍事基地があり、周囲が山で囲まれていることから、爆発を「集中させて」破壊力を増幅させるとしてリストに加えられた」

 

 

「6月末に、委員会は京都、広島、小倉、新潟を指定目標リストに載せ、これら4都市への空襲を禁止した」とあります。

 

 

これはとりもなおさず、原爆投下の目的がそもそも、放射能による物理的かつ生物学的被害を投下後に測定する被曝実験を行うことであったことを意味しています。

 

 

「5月末に空襲が行われた横浜は、このリストから外され、京都もそのすぐ後にリストから外され、空襲や原爆を含め一切の攻撃が禁止された。その理由は、ヘンリー・スティムソン陸軍長官が、戦略的理由と感情的理由から、日本の古都は守るべきと判断したため」などとあります。

 

引用元:

米国は第3の原爆投下を計画していた | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト (nikkeibp.co.jp)

 

 

候補地ではなかった長崎に原爆が落とされたのは以下のような経緯だったようです。

 

8月9日当日、実際には小倉市に落とすはずだったが、隣の八幡市に前日米軍が行った八幡市空襲で小倉の上空が煙っていたこと、小倉陸軍の高射砲の対空攻撃が激しかったことで、代わりとして長崎市に落とされた、というものです。

 

午前9時40分、大分県姫島方面から小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、9時44分投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達。爆撃手カーミット・ビーハン陸軍大尉がノルデン爆撃照準器から目標を確認し、それを受けてスウィーニーが投下用意を令して爆弾倉を開け、スウィーニー以下全搭乗員が保護メガネを着用して爆発に備えた。

 

ところが、当日の小倉上空を漂っていた霞もしくは煙のために照準器の視野が遮られ、目視による投下目標確認に失敗する。この時視界を妨げていたのは前日に米軍が行った、八幡市空襲(八幡・小倉間の距離はおよそ7キロメートル)の残煙と靄だといわれる(米軍の報告書にも、小倉市上空の状況について『雲』ではなく『煙』との記述が見られる)。

 

また、この時地上では広島への原爆投下の情報を聞いた日本製鐵八幡製鉄所の従業員が、9日朝、敵機が少数機編隊で北上している報を聞き、上司の命令で煙幕装置に点火。新型爆弾を警戒して「コールタールを燃やして煙幕を張った」と証言しており、これが影響した可能性もある。

 

ボックスカーは旋回して爆撃航程を少し短縮して爆撃態勢を繰り返すものの煙で依然として目標がつかめなかったばかりか、日本軍高射砲からの対空攻撃が激しくなり、ボックスカーの周囲には高射砲からの弾着が取り巻いて機体が爆風で揺さぶられるようになった。(中略)

 

この小倉上空での3回もの爆撃航程失敗のため残燃料に余裕がなくなり、その上「ボックスカー」は燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えた。

 

その間に天候が悪化して目視爆撃が難しくなり、目標を小倉市から第二目標である長崎県長崎市に変更すべく午前10時30分頃、小倉市上空を離脱した。

長崎市への原子爆弾投下 - Wikipedia

 

 

 

■「原爆の父」理論物理学者のオッペンハイマーを主人公に描いた映画

クリストファー・ノーラン監督による3時間の超大作映画「オッペンハイマー」が3月29日から日本公開となります。

 

 

「オッペンハイマー」の世界公開は昨年の7月だったそうで、ユニバーサルによると興行収入は第2次世界大戦を舞台にした映画としては最多の興行収入で、全世界で9億1200万ドル(約1350億円)を記録したそうです。また、この映画は作品賞や監督賞などアカデミー賞7部門を受賞しています。

 

 

日本公開に先駆け、世界で唯一被曝国日本の中の被爆地広島で、試写会が3月12日に開かれ、県内の高校生や大学生などおよそ110人が参加し、元広島市長の平岡敬さんは、「いろんな角度から考えられるんですけど、私は広島の立場から、ちょっとね、原爆の恐ろしさ、核兵器の恐ろしさというのがまだ十分に描かれていないんじゃないかなと思ったんです」と感想を述べておられます。

 

 

以下はNational Geographicの2023年8月6日号からの記事の一部をご紹介です。

 

「原爆の父」オッペンハイマーは本当に後悔していた?

(前略)

 

オッペンハイマーが所属していた科学委員会は旧陸軍省に対して、できるだけ早く日本に原爆を投下するよう勧めていた。また、投下目標は軍事施設に限定し、日本の降伏を引き出すため事前に実験を公表するべきだという提言も行ったが、政府がこれに耳を貸していたかどうかについては、今も議論が続いている。

 

広島に原爆が投下された日の夜、ロスアラモスでは歓声が上がった。

 

このとき喝采を浴びたオッペンハイマーは、原爆の完成がドイツとの戦いに間に合わなかったことが唯一の心残りだと語った。

 

(オッペンハイマーは米国生まれの米国人ですが、織物の輸入業で富を築いたドイツ系ユダヤ人移民の子供だったそうです)

 

原爆の成功には喜んだものの、多くの民間人が命を奪われたことに科学者たちは戦慄し、核兵器がこの先、戦争を抑止するのではなく、さらなる戦争を引き起こすのではという不安に駆られた。

 

 

原爆投下から数週間後、オッペンハイマーは陸軍長官に宛てた手紙のなかで、「この国(米国)の安全は、優れた科学力や技術力に頼るのではなく、未来の戦争を不可能にすることによってのみ確保される」と書いている。

 

(これはGHQにより、「日本国憲法9条」がそもそも何故作られたのかを物語っています)

 

しかし一方では、「マンハッタン計画と原爆の開発を擁護し、原子核科学の可能性を完全に理解するためには(核兵器は)必要だった」と主張した。

 

水素爆弾への反対

戦後オッペンハイマーは、残りの生涯の大部分を核抑止運動に費やし、核開発で大きく前進したソ連に対抗して米国がさらに強力な水素爆弾を開発しようとしていることに強く反対した。また、戦術核兵器のみの使用を考慮することとし、軍事目的よりも発電など原子力技術の民間利用に力を注ぐよう政府に訴えた。

 

ところが、これがきっかけでオッペンハイマーは政敵を作ってしまい、冷戦中に米国で巻き起こった共産主義者に対する「赤狩り」の標的にされた。1954年には、原子力委員会による公聴会に呼び出され、機密情報の取り扱い権限を剥奪された。その決定が覆されたのは、それから70年近くがたった2022年のことだった。

 

政府がオッペンハイマーの件を再調査したところ、当時の調査がずさんで違法だったことが認められたのだ。

 

「彼は、核兵器擁護派とか反核派とか、そういった安易なカテゴリーには当てはまらない、複雑な人物でした」と、歴史家のアレックス・ウェラースタイン氏は、米公共放送PBSのインタビューで語っている。

 

オッペンハイマーはその後、政府の仕事に戻ることなく、世界芸術科学アカデミーを創立すると、1967年に他界するまで、科学と倫理についての講義を行った。戦争を終わらせるために「必要」とされた兵器の開発に携わったものの、結果としてそれが2つの都市を破壊し、新たな核の時代を招いたことを目の当たりにしたオッペンハイマーは、その後の生涯をかけて核不拡散運動に取り組んだ。

 

彼は1950年にこう発言している。「どんな下品さでも、ユーモアでも、誇張でも消せない粗雑な言い方をすればある意味で、物理学者は罪を知りました。そして、それは失われることのない知識です

引用元:

「原爆の父」オッペンハイマーは本当に後悔していた? | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト (nikkeibp.co.jp)

 

 

参考:

オッペンハイマーと湯川秀樹がすがったひとりの被爆僧侶|TAP the ROOTS|TAP the POP