「戦時国際法」では軍事目標以外への攻撃禁止(降伏者、負傷者、民間人等の攻撃禁止)を真っ先に挙げています。

 

 

「東京大空襲」は第二次世界大戦のさなかとはいえ、東京の都市部を標的とした無差別攻撃によって、市民に大きな被害を与えるという戦争犯罪であった。爆撃被災者は約310万人、死者は11万5千人以上、負傷者は15万人以上、損害家屋は約85万戸以上の件数という広島原爆(9万人~16.6万人死亡)や長崎原爆(7万4千人死亡)に匹敵する規模の民間人の大量殺戮でした。

 


その「東京大空襲」を指揮した米軍人カーチス・ルメイに対し、日本は1964年12月7日に勲一等旭日大綬章を綬与しています。

 

 

日本という国の属国ぶりがあまりにも酷いことの一例にあげられる話題です。

 

1945年東京

 

日本という国は平和な国のようにみえますが、実はときどき恐ろしいことが起こっています。これまでも、真相が闇に葬られる大事件が起こってきました。

 

 

昨年7月8日に奈良県で多くの人々の目の前で起こった「安倍元総理暗殺事件」について、奈良県警の内部の匿名の人物が「真犯人は山上ではないが、あまり深入りすると命に危険が及ぶよ」と語っているそうで、真相はやはり迷宮入りですね。

 

 

特に1985年は戦後の日本にとって恐らく最大の迷宮入り事件が起こりました。

 

1985年群馬県上野村御巣鷹山

 

日本政府はこの事件を当初「横田米軍による綿密に計画された武力攻撃」だと思わず「海上自衛隊の試験航行中のテストでの誤射がきっかけで民間旅客機JAL123便を墜落させた事件」と思っていた可能性があります。途中で気づいても隠蔽工作で国民を騙したことにより、結果的に完全に横田米軍に対して何も言えない立場になってしまったようです。

 

 

当時、米国側の「属国日本」に対する怒りが頂点に達していたようです。

 

 

1985年の時代背景としては、日米貿易戦争(経済戦争)があり、当時こんなことを米国側は主張していたようです。

 

 

「戦争に勝ったのはどちらの方なのか。我々は戦後に日本人達の飢餓を救い、技術者を米国に招いて産業技術を教えてやった。寛容にも限度がある」と。

 

 

戦後の高度経済成長を経て「世界最大の債権国」にまでなった「属国日本」に対し、「世界最大の債務国」である米国が「プラザ合意」(1985年9月2日)を結ばせるために、武力(中性子爆弾の空対空ミサイル)で日本を屈服させた事件が、まさしくその直前の「日航機墜落事件」(1985年8月12日、520名死亡、4名生存)であったという内容を語っておられる人物がいました。

 

 

元日航の社員の方の貴重な動画です。2009年8月8日のこの講演のあとで、佐宗邦皇(さそうくにお)氏は「急死」なさっておられます。

(2分10秒頃から)

 

佐宗邦皇さんは東大法学部卒で日航時代は将来の社長候補と言われるほど人望の厚い方だったそうです。早期退職を願い出て、歴史研究をなさり、日本人の覚醒を促す活動をなさっておられたようです。

佐宗邦皇 - Wikipedia

 

 

(注)中性子爆弾

戦場用ミサイル弾頭用のもので,次のような効果をもつものといわれる。

(1) 爆心からの距離約130mで全て建物や車両が破壊され人員は即死する

(2) 800mで人員は即時能力を喪失,殆ど100%死亡するが物理的破壊は起らない

(3) 1600mで死亡者と放射障害患者が生じる

(4) 2000mでほとんど効果はなくなる

中性子爆弾(ちゅうせいしばくだん)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

 

因みにJAL123便はボーイング747-SRで全長はおよそ80m。

 

特捜部長の山口悠介検事正がご遺族に「本当の原因を追究すれば戦争になる」と語っていたといわれています。

 

 

米国は日米貿易不均衡を全て日本側に要因を押し付け、日本の内需拡大を迫る米国の指示と「プラザ合意」(1985年9月2日)によって、以後は超円高となって日本では狂騒経済(バブル経済)が始まり、90年代にそれがはじけ「失われた30年」という経済低迷を経験することになったわけです。

 

 

JAL123便墜落当時は中曽根内閣で、現場は奇しくも総理の地元の群馬県で上野村は中曽根総理の選挙区、おひざ元です。

 

■「事故」ではなく「事件」だった

「日航機墜落事故」という名称で呼ばれており、つまり「事故」という括りですが、実際には「事件」でした。

 

 

日航機墜落の2日後に、米国のレーガン大統領(当時)から中曽根総理(当時)宛に来た「親書」には、資料として整理するため、総理の秘書官もしくは外務省官僚が「事故」ではなく「日航機墜落事件」と手書きしてあったそうです。これが単なる書き間違いであろうはずがありません。

 


 

事故調査委員会が最終発表した「事故原因」は、全て米国のボーイング社側が出した内容に沿ったもので、当初は修理ミスを完全否定していたボーイング社が、事故の1か月後には180度態度を変え、わざわざ「後部圧力隔壁破壊説」という、今では説明として科学的に破綻した「でっちあげ」の説明で墜落の原因とされた垂直尾翼の破壊飛散を「内部要因」によるものとして幕引きを図っています。

 

 

民間航空機の「ブラックボックス」は最後部の座席の天井裏、「垂直尾翼」の真下にあるそうで、つまりそれほど「垂直尾翼」は頑丈につくってあるのだそうです。

 

 

墜落した123便はB747SR-100という機体で、最も弱いとされるセクション48(胴体尾部)の設計破壊強度は最大で1.5psi、一方、垂直尾翼の設計破壊強度は4.8psi~5.4psiという頑丈さなので、後部圧力隔壁破壊で与圧噴流が起こったとしても、胴体尾部より先に垂直尾翼の方が破壊飛散することなどありえないのだそうです。

 

引用元:

【日航機墜落事故64】墜落原因は誰が決めたの?

 

 

123便からのブラックボックスから回収したコックピットボイスレコーダー(CVR)についてはこれまで、編集と改竄された音声しか公開されておらず、ご遺族が願い出ても完全開示されることが拒否され続けています。

 

 

事故から38年経った現在でもご遺族の中には真相を求めて国と闘いづづけている方々もおられます。

 

日航機事故 データ開示求めた裁判 遺族の訴え退ける 東京地裁 | NHK | 事故

 

 

■実は3時間早く到着していた

警視庁機動隊の会報「あゆみ」によれば、実は、事故の翌日の8月13日の朝6時半には警視庁機動隊や県警、地元の上野村消防団や自衛隊は墜落現場に到着して活動を行っていたのだそうで、現場は想像を絶する地獄絵で言語に尽くせないほどだった、などの記述があるそうです。

 

 

つまり、公式に発表されているより3時間早く現場では捜索活動が開始していた、ということです。(公式発表では午前9時に陸上自衛隊第13科普通科連隊が陸路で現地に到着するとともに、陸上自衛隊第一空挺団員(指揮官岡部俊哉、後に幕僚長)が現場に降下、上野村消防団が午前6時半に出発、10時半にスゲノ沢づたいの墜落現場に到着、10時50分頃に生存者発見と発表)消防団の中に4時台に登山を開始して6時台には墜落現場に到着していた人々が4,5人いたのだそうです。

 

 

むしろ批判されるのに、現場到着時刻を敢えて遅い時刻で発表しているのは何故だったのでしょうか。

 

 

■墜落時の時速650㎞は何を意味していたか

JAL123便の墜落時の速度は時速650㎞という猛スピードで山の斜面に激突して大破していると推定されています。

 

 

失速して急降下したという状況だったにせよ、低空飛行をし、既に失速している飛行機が急降下したとしても時速650㎞ものスピードは出るはずはないそうです。

 

 

元パイロットの方々によれば、時速650㎞を出すには4つのエンジンをマックパワー(エンジン全開)にしても、(加速のための)距離が必要なので、そのようなスピードは墜落速度としても考えられないそうです。

 

 

つまり、墜落時に123便には大きな物理的エネルギー、衝撃波が加わったと考えるべきようです。

 

 

■遺体は凄惨を極め墜落現場は地獄絵だった

事故発生から、身元確認作業が終了した12月18日まで延べ127日間で、出動した医師、看護師は2891人(医師1087人、歯科医師1217人、看護師587人。

 

 

検屍総数は2065体に及んだそうです。内、完全遺体は492体だが、五体満足な遺体は177体しかなく、遺族が面接してはっきり確認できた遺体は60体のみだったそうです。ちぎれた手足や指や皮膚がそこら中の木からぶら下がり、地面に散乱し、遺体は筋肉も骨も炭化し、二人分の頭蓋骨が完全にくっついて顔面が三つ目になっているという凄まじいご遺体などもあったそうです。

身体の部位すらわからない…520人の身体が、2065体の遺体となって検屍された:日航機墜落…「離断遺体」検屍の真実 | ビジネスジャーナル (biz-journal.jp)

 

 

機体の最前部のコックピット内におられた高濱機長のご遺体などは、悲惨なことに、顎の骨と歯のみしか残っていなかったのだそうです。

 

 

4基のエンジンのうち第4エンジンも粉々だった。

 

 

ご遺体の写真一例(閲覧注意です)

日航機墜落事故+機長+遺体+写真 - Bing

 

 

高度24000ftの上空で、垂直尾翼が吹き飛ぶほどの内側からの圧力がかかるほどに「圧力隔壁」が大きく破損して、機内に実際に「急減圧」が起こっていたなら、ー30℃からー40℃の冷たい大気が機内に入り込んで客室内もコックピットも、著しい低酸素状態となっていたはずです。

 

 

「爆発音」の後、確かに「酸素マスク」が全て下りた状態になっていたことが、客室内を撮影した写真の画像からや生存者の証言からもわかっていますが、機内の温度はさほど下がらなかったこと、客室内に「霧」は立ちこめず、少しだけ発生してすぐに消えたことが生存者の証言からわかっています。

 

酸素マスクが下がってきたのは、機体の胴体部分の油圧系統に衝撃が加わったためと推定されています。

 

 

民間航空機の酸素マスクはせいぜい17分程度しかもたないが、123便は異常事態発生後も高度7000mの上空を20分間以上は飛行していました。(緊急事態発生の18時24分から墜落18時56分までの飛行時間は32分)

 

 

その間、コックピット内の機長は音声から、酸素マスクなしで東京管制部と交信していたことがわかっており、乗客の方々も意識を最後までしっかり保っており(最後の瞬間まで家族に宛てた言葉を手帳に書いていた人などもおられたそうです)、生存者の方々の証言などからも、123便の機内に「急減圧」が起こっていたとは到底考えられない

 

 

最終的には、日航側にも、「整備不良による事故であった」とされるボーイング社にも誰一人もこの「墜落事故」の過失責任は問われていませんし、起訴すらもされませんでした。(事故原因はその両者には実際はなかったからです)

 

 

様々な疑問だらけであるものの、平成25年に出来た「特定秘密保護法」という分厚い壁のため、この「事件」の真相が国民に明かされることは今後恐らくはありません。

 

 

JAL安全啓発センターには以前、123便の白い機体残骸の脇に赤い物体が展示されていたそうです。

 

 

現在は展示の中に見当たらないようですが、そこには「40番部品」と書いてあったそうです。これは何を意味していたのでしょうか・・

 

 

 

■運輸省事故調査委員会が出した報告書

事故調査委員会が出した墜落原因の結論は、「墜落事故の7年前の尻もち事故のときに圧力隔壁に残った破損をボーイング社による整備不良があったことで、飛行中に圧力隔壁が破損して『急減圧』が起きてしまい、それよって垂直尾翼に内側からの強い圧力がかかって損壊飛散、そして油圧の操縦系も破損したため」という内容でした。

 

 

事故の2年後1987年6月に出された運輸省事故調査委員会の報告書:

http://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/rep-acci/62-2-JA8119.pdf

 

 

123便墜落までのあらまし

1985年8月12日18時12分に羽田発大阪伊丹空港行きボーイング747JAL123便離陸

http://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/62-2-JA8119-05.pdf

 

 

羽田沖には「相模湾潜水艦行動区域」という「横田空域」があり、民間旅客機は避けるように飛行している。

 

 

この空域は事実上日本の航空法が適用されない、日米地位協定に伴う航空法特例法によって適用除外となっている。

 

(管内における在日米国軍訓練区域)

 

三管区水路通報要覧 (mlit.go.jp)

 

【日航機墜落事故㊱】(本動画は予告なく削除、又は変更される恐れがあります。) - YouTube

 

123便に異常が発生したのは18時24分頃でちょうど、この区域近くの上空を飛行中で、この区域から離れる寸前に起こっており、翌日「垂直尾翼」の一部が落下しているのが発見されたのもこの区域内だったそうです。

 

 

8月12日には相模湾沖で納入前の「新型護衛艦まつゆき」が試験航行を行っていたそうですが、防衛省の記録によれば、「1985年8月5日~14日、横須賀、呉、佐世保、鹿児島の海域で日米合同軍事訓練」が行われ、8月12日の訓練では相模湾及び相模灘海上自衛隊「しらね」「むらくも」と、米軍の揚陸指揮艦「ブルーリッジ」(管制装置あり)が参加。

 

引用元:

【日航機墜落事故65】これより新聞テレビが絶対言えない部分を話していきます。序章 - YouTube

 

 

「まつゆき」(試験航行中だった)

 

以下は「運輸省事故調査委員会」が2年後に出した「JAL123便墜落の報告書」にはない、あくまでも囁かれている仮説です。

 

 

(第一段階の事象の仮説)垂直尾翼の破壊飛散の原因

試験航行中の「まつゆき」の艦上で、その頃、海上自衛隊は米側の技術者と共に「レーダー追尾機能測定の検定校正」というテストを行っていた。

 

 

本来、無人標的機「ファイアー・ビー」の飛行の操作は訓練支援艦「あづま」の管制システムによって行われ、「まつゆき」のみでは発射できず、8月12日当日「あずま」は呉にあった(あくまでも公式発表で)。

 

 

この日この海域で「レーダー追尾機能測定の検定校正(通信動作確認)」が何故か行われていた。

 

 

「まつゆき」は米軍揚陸指揮艦「ブルーリッジ」の無線誘導で「レーダー追尾機能測定検定」を行い、「無人標的機ファイア・ビー」(黒)と「チャカ2」(白)を飛翔させ、結果的に123便に命中させてしまうという不測の事態が発生。

 

 

「ファイア・ビー」は、123便の胴体の中央下部に、「ファイア・ビー」を追尾していた「チャカ2 」は1秒遅れて123便の垂直尾翼に衝突。

 

 

この時の衝撃音が、CVRに残っていた18時24分35秒と36秒の衝撃音と推定。

 

 

翌日、123便から飛散して落下した「垂直尾翼」の一部はこの「相模湾潜水艦行動訓練特別区域」の区域内で「まつゆき」によって発見されています。

 

 

参考:「たまたま自衛隊員が真実を語る」

当時から今日まで友人が語ってくれた話がどうしても私の脳裏から離れる事ができないのです。事故当時、航空自衛隊に勤務していた友人が、事故から数週間後に休暇を貰って地元に帰ってきた時に聞いた、本当の話です。友人は、私(普通の一般人)に対して嘘をつかなければいけない理由なんてないだろうし、そして、まだ事故原因も分かっていない時期に、私に、いずれは分かると思うんだけど(直ぐに真の原因が分かると言う意味だったんだと思います)...と言って話してくれた事は、「123便の事故は、本当は自衛隊が墜落させたんだよ。当時訓練で標的機を飛ばしていて、それが操縦不能になって行方が分からなくなり、そのとき近くを飛んでいた123便にぶつかったんだ。墜落現場には標的機のオレンジ色の残骸があったから誰もいないうちにヘリで回収したんだ」と言っていました。

 

当時まだ事故から数週間しか経っていない時にそう言ったのが当時、凄く印象的でした。もちろん当時私は半信半疑でしたが、今考えても彼が私に嘘を語る理由もないし、嘘の話をしたところでなんにもないのです。ただ、彼も自分が知っている事を誰かに話したかったんだと思います。そして、一般隊員(だと思います)の彼が知っているくらいだから、当時自衛隊内ではこの話を知っていた人は結構いたのではないでしょうか。私がこの話を投稿(このような話を真実と確認していないのにいいのかと迷いましたが、聞いた話は本当だったので)したのは、「8・12連絡会」が発行した「旅路」を目にしたからです。

 

実際の事故機墜落現場は早くからわかっており、地元民らは救出に向かおうとしていたのに、わざと違う事故現場を報道させ、また地元民らにも救出に向かうことを禁止した。

引用元:

2010年06月01日の記事 | My First JUGEM! 平和立国

 

 

18時24分に続けて2回の衝撃音を受けて

18時25分「羽田に戻るため2万2000 ftまで降下したいがどうか」

と羽田へ戻ることを高濱機長は管制塔に打診している。

 

 

この「第一段階の事象」が発生したのは、その後の123便の辿った状況をみれば、単なる偶発的なもだったとは到底思えません。

 

 

恐らく(綿密に計画された)米軍技術者による巧妙な工作だったのだろうと思います。(ファイア・ビーもチャカ2も米国のライセンス製品で、米軍のために開発されたものです

 

 

同時に自衛隊は米軍の罠に嵌められたことになるわけで、日航機事故に対する組織としての自責の念からなのか口封じのためなのか、翌年は90名もの自衛官が自死なさっているそうです。

 

 

(第二段階の事象)スコーク7700

CVRより

18時24分「アンバーライトオン」

18時25分「ヨーダンパーがやられた」

 

最近リークされた編集削除されていないCVRの音声の一部から

18時25分副操縦士が(事故調が発表していた「オールエンジン」ではなく)「オレンジエア」もしくは「オレンジギア」と発声。

 

ノイズを除去した音声や多くのパイロットの方々の意見では「オレンジギア」「オレンジドア」との見解が濃厚のようです。
 

「オレンジエア」とはミサイル発射練習に使う「無人標的機」や「誘導ミサイル」を指すを隠語なのだそうですが、コックピット内でこの状況で副操縦士がそのように断定したとは考えにくく、高濱機長が「ギアみて、ギア」と発しているのを受けて、操縦席後ろのパネルのギアの状態がオレンジ色のランプが点いている、という意味で「オレンジギア」と答えたのであろうと分析されている。

 

引用:

日航123便の真相に迫る③【ボイスレコーダーの音声をデジタル処理で甦らせる】 - YouTube

 

 

2つの無人標的の内、一つがボディギア(胴体部分)近くに命中したことで、ギアの状態を知らせるオレンジのランプが点灯していたのではないかと推定出来ます。

 

(以上、緑色の部分は訂正加筆しました)

 


 

「何か爆発したぞ」という声の7秒後に直ちに

18時24分~28分の間に「スコーク7700」(緊急事態発生)を発信。


 

18時28分頃、千葉県愛宕山の航空自衛隊 中部航空警戒管制団第44警戒群(峯岡山レーダーサイト)で123便の緊急事態を表す「スコーク7700」を受信している。
日本航空123便墜落事故 - Wikipedia

 

「スコーク7700」は、民間機が何かに要撃の対象とされた場合の緊急コールで、発信した民間航空機は、自衛隊機の指示・誘導に従うよう定められています。

 

スクランブルをかけた自衛隊機が使用する言葉は次の4つです。
1.当方に従え
2.着陸のため降下せよ
3.この飛行場に着陸せよ
4.そのまま飛行してよい

これに対して、要撃された民間機が使用できる言葉は、次の6つです。
1.了解、指示に従う
2.指示に従うことはできない
3.指示を繰り返してください
4.自機の現在位置がわからない ←リクエストポジション
5.○○に着陸したい
6.降下したい

スコーク77と自衛隊機の誘導

 

これは、あくまでも、スクランブル機が自衛隊機だった場合の言葉の取り決めです。

 

 

この信号発令を受信した場合、茨城県の百里基地から航空自衛隊のF-4ファントム戦闘機がスクランブル発進しなければなりません。(首都圏には埼玉の入間基地など多くの航空自衛隊の基地があるが、戦闘機が配備されているのは、この百里基地だけなのだそうです)

 

 

日本政府は、しかしながらあとから、「JAL123便墜落前には航空自衛隊のファントム戦闘機F-4はスクランブル発進はしておらず、墜落後の19時1分にファントム偵察機RF-4E2機が百里基地から発進した」とする発表をしています。

 

 

航空自衛隊戦闘機ファントム戦闘機F-4

 

 

非番の自衛隊員(相馬原第12偵察隊 1等陸曹)が寄せた次のような文章:

8月12日私は、実家に不幸があり、吾妻郡東村に帰省していた。

 

午後6時40分頃、突如として、実家の上空を航空自衛隊のファントム2機が低空飛行していった。その飛行が通常とは違う感じがした

 

「何か事故でもあっただろうか」と兄と話をした。午後7時20分頃、臨時ニュースで日航機の行方不明を知った。

 

当時の週刊誌の報道:

「ワタナベケンタロウチャンネル」㊳より

 

 

現職の自衛官が「午後6時40分頃、突如として、実家の上空を航空自衛隊のファントム2機が低空飛行していった。その飛行が通常とは違う感じがした」とはっきり証言なさっており、ほかならぬ自衛官が機種の識別を誤るはずはない。

 

 

また、新聞報道でも最初は墜落前に百里基地から航空自衛隊のファントム戦闘機F-4機2機がスクランブル発進し、日航123便を追った。だが、飛んでいる123便を見つけることは出来なかった」と報道しています。

 

 

日本政府は、何故あとからわざわざ虚偽の発表しなければならなかったのか。

 

 

ここが重要な「鍵」の部分だと思います。

 

 

ところで、JAL123便・ボーイング747SR-100にはフェイルセーフ が備わっており、少々の損壊では墜落しない安全構造になっていたそうです。

 

 

垂直尾翼の3分の2が損壊飛散し更には油圧系統が損壊しても、電気系統や4基のエンジンが無事だったから、エンジンの左右の出力のバランス調整や、ギアを利用して、ある程度の操舵性が残っていたらしく、ベテランパイロットであった高濱機長にはその後も飛行を継続させることが可能でした。

 

 

とはいっても、普通ならば、市街地での墜落を避ける必要性から、決して内陸部に向かうはずはない。

 

 

なるべく海沿いの上空を飛行して着陸可能な飛行場を目指し、最悪でも速度を200ノット以下に落として水平飛行できれば「洋上不時着」を試みることが可能なのだそうで、その方が地上の二次災害のリスクは少ないわけです。

 

何故、内陸部にあり、他でもない「米軍基地」をわざわざ緊急着陸のために目ざしたのだろうか?

「横田飛行場」(米軍横田基地滑走路)

 

123便はその後、羽田や名古屋空港ではなく、都民の住宅密集地のど真ん中の「横田米軍基地」へ緊急着陸を試みていたようなのですが、これが極めて異常なことだということは容易に想像できると思います。

 

 

一体誰の指示で、「羽田」や「名古屋」などではなく、米軍の軍事施設である「横田飛行場」へ向かうよう誘導されていたのかということが、最大の疑問点なのではないでしょうか。

 

 

JAL123便のコックピットは「羽田」に戻ることを真っ先に希望し、CVRの音声では、東京管制部も「羽田」や「名古屋」を示していたようなのです。

 

 

もう一度繰り返しますが、「スコーク7700」とは「要撃の対象になっている」という意味で、信号を受信した基地から戦闘機がスクランブル発進して民間旅客機の護衛と誘導に当たらなけらばならないし、民間航空機の方はそのスクランブル機の指示・誘導に従う必要があるわけです。

 

 

つまり、この先の指示系統としては「東京管制部」のにみならず、「スクランブル発進してきた戦闘機」に123便はある程度従わなけらばならなかったわけです。

 

 

百里基地と横田基地

 

日本の領空内で民間の航空機が「スコーク7700」(「要撃されている」という意味)を発信発令した場合、航空自衛隊は受信後に戦闘機をスクランブル発進して民間航空機を護衛誘導しなければならないそうですが、戦闘機ファントㇺF-4があるのは茨城県の百里基地のみなのだそうです。

 

 

「百里基地」からだと「スコーク7700」(18時28分)の123便の位置(駿河湾)迄は例えば「横田基地」の2倍以上の距離です。

 

 

ここで、以下の様な仮説を立ててみます。

 

①航空自衛他のF-4機がスクランブルをかけていたときに、米軍の戦闘機も同じくスクランブルをかけ、F-4より先にJAL123便の誘導を開始していた

 

 

②米軍戦闘機であったからこそ、123便に対して「横田ランディング」への誘導指示を出すことが可能だった。

 

 

駿河湾を過ぎた18時31分頃から、123便は向きを北方向に変え始めています。これは何故だったのでしょうか。

 

 

「緊急着陸空港検討中」のあと、(東京管制部から)「名古屋へ緊急着陸せよ」という指示が出ていたと当時週刊誌で報道されています。

 

 

これが事実であるならば、JAL123便には東京管制部がとは別の「意図」で、敢えて「横田」を目指すことになった、といえそうです。


 

18時29分「詳しいことは後でいう」(これは「スコーク7700」の直後です)

18時33分「故障個所がわかった」

18時35分「キャビンプレッシャードロップ」

     「デコンプレッシャー(客室内の緩やかな減圧)」

      →そのために高度を下げる必要

 

乗客のMさん(享年43)が残したメモ

18時30分 急に降下中 

                水平飛行している

 

過去にもそれ以降今日まで、日本の大型の民間旅客機に対して、周辺に東京都民の住宅密集地がある「横田飛行場」への緊急着陸を東京管制部が優先的に誘導している例など、恐らく一例もありません。

 

 

誰が「米軍横田飛行場への緊急着陸」を指示したのか?

 

 

少なくとも、米軍の許可がいるはずですし。

 

 

ここは、当然のことですが、付近の住民の方々はいつも横田飛行場の離発着にはピリピリしているようなのです

参考:

横田基地関連|東京都福生市公式ホームページ (city.fussa.tokyo.jp)

 

 

米軍戦闘機F-106デルタダート(翼の下に空対空ミサイル)

                         

 

もし「スコーク7700」で米軍戦闘機が在日米軍基地からやはりスクランブル発進していたのならば、「横田ランディング」は横田米軍戦闘機F-106機による指示誘導だった可能性があるのではないか?

 

 

18時38分「マヌーバー(操舵性)が悪い」

18時41分「右最後部ドア(R5)が故障したため緊急降下する」

 

   

18時38分頃に富士山の北側の22400ftの上空を飛んでいたJAL123便は大月の辺りで旋回して高度をさげて、この辺りから「横田ランディング」を目指し始めた航路をとっています。

 

 

123便はその後、名古屋方面へ向かうのではなく、駿河湾を北上して富士山の北側を通り、大月の辺りで旋回して高度を22400ftから徐々に9000ftまで高度を下げ、横田飛行場を目前に着陸態勢に入っています。

 

 

CVRの音声でも123便の機内CAの方が冷静なの声で「緊急着陸態勢に入っている」とアナウンスしておられたようです

 

 

CAの方が手書きで「注意事項」をアナウンスするためのメモがを書いたものが残っています。

 

 

実際には123便は横田飛行場への緊急着陸を断念しています。

 

 

高度を下げ「緊急着陸態勢」(18時45分~48分)に入っていたことは(飛行経路図参照)や乗客のメモやアナウンスなどから間違いないです。

 

 

乗客Mさんのメモ

18時45分 機体は水平で安定して酸素が少ない気分が悪い、

       機内よりがんばろうの声がする

18時46分 着陸が心配だ スチュワーデスは冷静だ

 

可能性としては、①横田側からの「事実上の着陸拒否」②「中曽根首相による着陸の禁止命令」③機体の状態で、横田米軍基地への緊急着陸が出来ない状況だった」のいずれか。

 

中曽根総理が(実は軽井沢からの帰路にあった列車内の電話でやりとりなさっていたようですが)524名の人命がかかっている、選択肢が極めて少ない中で、米軍が許可しているのにわざわざ緊急着陸を中止させとは思えません。

 

 

ここに至るまでの異例の飛行経路や、最後の結末をみれば、これは最初から「仕組まれた罠」だった可能性が高い。つまり恐らくは①だったのではないか。

 

 

横田は「着陸許可」をCVRの音声上に残すためむしろ不自然なほど。墜落寸前まで123便に対して「延々と」呼びかけ続けていたそうです。

 

 

これは通常ではあり得ないそうで、むしろ「自分達は一貫してJAL123便に協力的であった」という形を「音声上」つくるための工作だった可能性があります。

 

 

例えば、もしも、そのとき、横田の滑走路に「多数の障害物」が並べてあったなら、「着陸は物理的に不可能」なわけで、事実上は「着陸拒否」されていると、滑走路を目視した上で高濱機長が判断なさったのかもしれません。

 

 

こうした一連のことを突き詰めれば、日米の二国間の安保体制そのものを脅かす重大な問題(相手の裏切り行為)を示唆しており、極めてデリケートな問題であり、殆どの方々が口を閉ざしています。

 

 

「これはだめかもわからんね」(18時46分30秒)

 

 

CVRに残された音声はまさにそのときの機長の深い落胆を表しておられたようです。

 

 

 

その後何故かJAL123便は北西の山岳地帯に進路を変えています。(18時48分)

 

 

証言集「小さな目はみた」より

八月十二日の夕方、六時四十五分ごろ南の空の方からジェット機二機ともう一機大きい飛行機が飛んできたから、あわてて外へ出て見た。

 

そうしたら神社のある山の上を何周もまわっているからおじさんと「どうしたんだんべ。」と言って見ていた。

 

おじさんは、「きっと、あの飛行機が降りられなくなったからガソリンを減らしているんだんべ。」と言った。ぼくは、「そうかなあ。」と思った。それからまた見ていたら、ジェット機二機は、埼玉県の方へ行ってしまいました。

 

それから、おれんちのお客が出てきて、「飛行機がレーダーから消えたんだって」と言った。おじさんが「これは飛行機が落ちたぞ。」といいました。(HHくん)

 

(第三段階の事象)墜落の直接原因

8月12日当日の群馬県及び長野県一帯の日没時刻は19時前頃。

 

山岳地帯に向かった123便は真っ暗な山の斜面に激突する可能性が高まっていた。

 

高濱機長は最後の望みを「長野県のレタス畑一帯への胴体着陸」を試みることに賭けていた可能性がある。

 

 

18時56分、123便は群馬県上野村の御巣鷹山で墜落。

 

 

(佐宗邦皇氏は)米軍戦闘機F-106による空対空核ミサイルによる攻撃だったと指摘なさっています。

 

 

横田基地からスクランブル発進した米軍戦闘機2機が、123便を御巣鷹山で撃墜した可能性が高いです。

 

米軍F-106デルタダート戦闘機:

米軍の戦闘機の中で空対空の核ミサイル搭載が可能な唯一の戦闘機とされる。

 

 

日本の自衛隊は核ミサイル搭載可能な戦闘機は運用されていませんし、自衛隊は「中性子爆弾」などの核ミサイルは保有していません。

 

 

非番の自衛官が吾妻群の実家近くで18時40分頃に目撃したのは「低空飛行」をしている「通常とは違う感じ」の「航空自衛隊のファントム2機」のみで、この自衛官が目視できる範囲には123便の機影はなかく、F-4機2機はJAL123便に追いついていなかったらしい。

 

 

HHくんが目撃した「一機大きい飛行機」(JAL123便)と一緒に飛んでいた「二機のジェット機」は航空自衛隊のファントム戦闘機F-4機2機のことではなく、横田から発進した米軍の戦闘機(F-106機?)2機だった可能性が高い。

 

 

「神社のある山の上を何周もまわってジェット機二機は、埼玉県の方へ行ってしまいました」と証言されているように、FDRによれば、JAL123便は御巣鷹山の上空を旋回しており、18時56分に墜落している。

 

 

 

 

■完全な形のCVRが開示出来ない理由は?

完全なCVRが開示されないので、実際にその32分間に何が起こっていたのか、開示されているCVRとFDRのみでは判断できないそうです。

 

 

横田米軍所属の輸送機C-130が、墜落直後に墜落現場に飛来している。

 

 

C-130の米軍パイロットが後に、「現場に駆けつけてロープを下し救助しようとしたが、日本政府が救助を断ったため、横田から帰還命令が出され、口外しないように命令されて引き返した」と語っている。

 

 

これは明らかに米軍側の「アリバイ作り」なのではないか。

 

 

報告書ではC-130到着の到着時刻は19時15分となっている。
 

 

JAL123便の墜落から僅か3分後の18時59分に、東京管制部の方に横田から「C130が横田の北西305度、34マイル(約54.7km)の位置で航空機が墜落炎上しているのを確認」という情報を伝えてきたのだそうです。

 

 

墜落の僅か3分後の情報提供ですが、公式発表では19時15分となっている。

 

 

恐らく、横田が東京管制部にJAL123便の墜落地点を報告できたのは、C-130輸送機の位置情報からではなく、その場でJAL123便を撃ち落とした米軍戦闘機自体の位置情報だったのではないでしょうか。

 

 

流石に、戦闘機F-106が123便の墜落現場にいたなどとはいえないでしょうから。

 

 

「無線を傍受していたC-130は現場到着後に直ちにロープを下ろして救助を始めようとしたところで、横田から帰還命令が発せられ、口外することを止められた」とそのときの横田米軍のC-130のパイロットが10年後に語っています。

 

(6) 日航機墜落事故 米軍幻の救出劇 (米軍パイロットの証言) - YouTube

 

 

米軍輸送機C-130がそこに駆け付けた目的は、JAL123便を撃ち落とした米軍戦闘機の代わりに、位置情報を提供したのは輸送機C-130だったという偽装工作のためと、墜落後の現場の様子を確認して横田に報告するためであったのだろうと思われます。

 

 

日本側は「救助を断ったという事実はない」と断言しており、10年後にわざわざ、「口外するな」と横田に言われたことを退役軍人であっても元米軍兵が公表すれば、軍法会議にかけられ、処罰は免れないはずなので、この情報は米軍による「情報戦」の可能性が高いと指摘されています。

 

【日航機墜落事故65】これより新聞テレビが絶対言えない部分を話していきます。序章 - YouTube

 

 

 

■日本側の動き

当時、平沢勝栄氏が藤波官房長官の秘書で、まずこの事態に気づき、19時過ぎに藤波官房長官が官邸に戻り、中曽根首相は連絡を受けたときは特急で軽井沢での休養から戻る途中だったそうですが、上野駅から19時47分に官邸に戻られたのだそうです。加藤紘一防衛庁長官、山下徳夫運輸大臣で、20時16分に関係省庁に指示が出されたと解説されています。

 

 

日本政府は「生存者なし」と早計に断定。一刻を争う状況下にあった瀕死の方々の救出を後回しにして、結果、数名から十数名の生存者を見殺しにしてしまった可能性があります。

 

 

当日の夜21時3分(墜落事件発生から約2時間後)に百里基地から岩崎稔三佐を乗せてMU-2型機で現地に向かったことを翌日の東京新聞が報じていたようです。

 

 

この事実は防衛庁の解説書には記述されていないそうです。

「ワタナベケンタロウチャンネル」㊳より

 

航空燃料のジェット燃料は灯油系でベンゼン環や硫黄などが含まれていないそうですが、上野村の方々が墜落現場でみつけた金属を東大の工学部で成分分析した結果、一部にベンゼン環や硫黄を含むガソリンやタールの成分がみつかっており、つまり火炎放射器のようなもので、落下物は回収すると同時に一部はその場で焼却して証拠隠滅を図った可能性があります。

 

 

民間航空機の緊急事態を知らせる「スコーク7700」で航空自衛隊の戦闘機F-4機がスクランブル発進せずに、墜落後の19時1分にファントム偵察機RF-4Eがスクランブル発進したのみだったと防衛庁(当時)は発表していますが、ファントム戦闘機2機が18時40分に飛行しているのを非番の自衛官が目撃しています。

 

 

墜落場所は墜落の10分以内に横田基地から東京管制部に情報提供されてもいたわけです。

 

 

夜間降下の特殊訓練を受けた自衛隊の方々は、まっさきに墜落現場の「地獄図のような光景」を目にしたはずですが、(生存者なしと判断した日本政府からは)生存者の捜索ではなく、彼らには「機体に刺さっていた無人標的機」などを回収して証拠隠滅せよという任務が下されていたのでしょう。

 

 

「生存者なし」という前提で全ての任務が行われたわけでしょうが、彼らにとってもこれ以上ない非情な任務だったはずです。

 

 

翌朝地元の消防団、警察、自衛隊が墜落現場での救出活動や現場検証を開始したのは9時過ぎと、敢えて3時間遅い時刻で発表された。

 

 

最後部席にいた4名の生存者は、後部に「垂直尾翼損壊飛散」で後部の天井に開口部が開いていたため、高熱の衝撃波を受ける前に外部に投げ出され、火災が起きなかった沢の方に滑り落ちて助かったようです。

 

 

但し、墜落事件の3日後に「赤旗新聞」が生存者の一人である川上慶子さん(当時15歳の中学生)の証言で、川上さんのお父さんや妹さんなど、暫く生存していた人々がいた可能性を指摘しており、もう少し早くこれらの人々の救助ができなかったのか、という疑問はぬぐえません。

 

 

4名の生存者が応急手当を受けた後、漸くヘリコプターに搬送されたのはなんと、翌日の昼過ぎ13時5分だった。

 

 

実は「123便には医療用アイソトープが搭載されていた」と発表され、墜落2日後に一時現場を封鎖して、「医療用アイソトープの回収」を行っていたなどの証言もあります。

 

123便の胴体部分の機体に刺さったままであった無人標的機の回収や、米軍戦闘機による中性子爆弾による攻撃の痕跡を残さないよう隠蔽工作を図らなければ、「日米安保体制」はおろか、国民世論から二国間の友好関係そのものが崩れてしまうという危機的事態だったからなのでしょうか。

 

 

 

それほどまで日航機墜落事件の犠牲者のご遺体は悲惨を極めていたそうです

事故発生から、身元確認作業が終了した12月18日までの延べ127日間で、出動した医師、看護師は2891人(医師1087人、歯科医師1217人、看護師587人)検屍総数は2065体に及ぶ。

 

内、完全遺体は492体だが、五体満足な遺体は177体しかなく、遺族が面接してはっきり確認できた遺体は60体のみだったという。墜落遺体がいかに悲惨であったかがわかる」とあります。

 

■「頭の中に頭が入った」目が三つある遺体

「目が三つある死体があるのですぐ来てください」

 

呼ばれて、群馬大学法医学教室の古川研教授が検屍フロアに行く。私も教授のあとに付いた。特異な遺体はできるだけ見るようにしていた。

懐中電灯を手に医師、警察官が頭部らしき遺体を真剣な表情で取り囲んでいる。脳髄は噴出して無い。潰れているので、髪の毛が付いていなければ、体のどこの部分か見分けがつかないようだ。

挫滅した顔面に三つの眼球がくっついていた。古川教授が綿密に調べた結果、頸部辺りから、他の人の頭部、顔面が信じられないほどの力が加わって入った、ということであった。つまり頭の中に頭が入ったのである。

離断遺体は、肉体の離れた皮の塊、炭化して分解した真っ黒い塊、内臓の塊、毛髪と顔の皮膚の一部、手、足、下顎、上顎骨に指一本、歯牙一本に至るまで、まさに想像を絶するものばかりであった。

引用元:

身体の部位すらわからない…520人の身体が、2065体の遺体となって検屍された:日航機墜落…「離断遺体」検屍の真実 | ビジネスジャーナル (biz-journal.jp)

 

 

人間の頭蓋骨はかなり硬く、頭と頭を粘土のようにくっつけることなど出来ません。この様な状況の遺体を説明するには、「核爆弾」などの、瞬時に超高温のエネルギーが加わる「非人間的」な力によるものでしか起こり得ないことだと思います。

 

 

焼けた金属片からはジェット燃料(ケロシン)に含まれないベンゼン環(ガソリンやタール)や硫黄が東大工学部の成分分析でわかっているそうですが、ご遺体からはそのようなものは検出されていないし、火炎放射器で自衛隊によって焼かれたなどはあまりにも荒唐無稽です。

 

ご遺体は核爆弾の熱エネルギーで一瞬にして炭化したものと思われます。

 

遺体の凄惨な状況は、東京大空襲、ヒロシマ・ナガサキと同様、「非人間的な力」によって、罪のない民間人への大量殺戮が行われたことを物語っていたのではないでしょうか。

 

 

(要約)

1985年8月12日の日航機墜落事件の真相:「日米合同軍事訓練中、米軍がその日、呉にあった訓練支援艦『あづま』の管制システムの代わりに、海上自衛隊の護衛艦『まつゆき』の『レーダー追尾機能測定検定』を行うとみせかけ、上空を飛行中のJAL123便を標的にしての要撃を加えた。

 

誤射を起こしたのは自衛隊という形にした上で、123便を「スコーク7700」発信発令という事態下においた」「スクランブル発進した横田米軍機の指示に123便を従わせて『横田基地』に誘導して緊急着陸直前に、事実上の『着陸拒否・着陸妨害』を行って、最後は123便を群馬県の上野村御巣鷹山の山岳部に追い込んで空対空ミサイルの『中性子爆弾』により、520名の民間人虐殺が起こった事件であった。

 

 

事件後に日本政府は「人命救助」よりも、「隠蔽工作」を最優先にした。

 

 

推定の根拠:

 

①遺体の状況からこの事件は「核」が使用されている以外には考えられない。

 

②日本に「中性子爆弾の空対空ミサイル」を持ち込み、戦闘機を使って日本の領空内で使用出来る者は日本国内には米軍以外にはいない。

 

 

③日本政府側は終始一貫して「人命救助」よりも「隠蔽工作」を最優先にしている、その背景にあるもとして「米軍への忖度」「日米安保維持」以外に想起できない。

 

 

そのような武力での「脅し」を行った後で、日米貿易不均衡を全て日本側に要因を押し付け、日本の内需拡大を迫る米国の指示とプラザ合意(1985年9月2日)によって、以後は超円高となって狂騒経済(バブル経済)が始まり90年代にそれがはじけ、日本は「失われた30年」という経済低迷を経験することになったわけです。

 

 

 

そして「2度目の敗戦」によって、日本はこうなりました。

 

 

亡くなったの方々は国家間の駆け引きの犠牲者であり、米国による日本への脅しの犠牲となり、それに屈した日本政府が守れなかった命でした。

 

 

毎年8月にはご遺族の方々がここまで慰霊登山を行っておられるそうです。

 

(追記)

TRONの技術開発者の方々も多数乗っておられ、BTORONは米国に「スーパー301条」で圧力をかけられて潰され、WindowsやMacがその位置を席捲しました。しかし「はやぶさ」でも使われた純国産の産業用ITRONは組み込み式OSとして現在は「世界標準」となっているそうです。

 

純国産OSの「TRON」が世界の標準規格となり、世界シェアが6割になるまでの経緯 | eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy) (ameblo.jp)

 

 

「夜間であっても、ヘリによる降下、救助は十分に可能であった。」「日本側に、本気で人命を救助しようとする意図がなかった」という疑念はぬぐえません。


「民間旅客機が撃墜され520名の民間人が虐殺される」という「日本国の主権侵害」の問題でもあり、同時に日本の首都東京の米軍基地内に「中性子爆弾」という「核」が持ち込まれ、横田米軍によってそれが日本の領空内で使われてしまう、という本来ならば「日米安保体制」においても、国際法上も決して看過できないことが起きたのがこの事件でした。


実行者が処罰された可能性もありますが、ただひたすら、国民の目からそれを隠すためにまず最初に「人命救助」よりも「隠蔽工作」が最優先にされたことは日本国民として非常に情けないですし、悲しいです。

 

 

日本政府の(主に中曽根元総理の)卑怯さと、「日米安保体制」のためならば国民の命を犠牲にしてもいいという、尊大でかつ卑屈、所詮は自己保身であり、そうした日本政府の姿勢への憤りは、国民の一人としてとても遺族でなくても理解できます。

 


戦後から今日に至るまでの実は深刻な「日米関係の実像」を露呈した事件であったと言えそうです。