4月12日(金)仁和寺仁王門前は観光客でいっぱい。バス停の前は早くも観光を終えた人が列を作っていました。
現在の仁王門は、寛永14年(1637)徳川家光の発願により建てられたもの。阿吽の金剛力士像が安置されています。
拝観受付所で御所庭園+御室桜+霊宝館のセット券を購入。
まず始めに御所庭園を拝観しました。
本坊表門入った所に臥龍の松。大きすぎて一枚の写真に収まりません。
御殿に入りました。
表玄関の奥に売店があります。
白書院が工事中のため、仮通路を歩きました。
皇族門、勅使門に囲まれた宸殿南側の庭。
小川治兵衛(1860~1933)の作庭による枯山水庭園です。
五重塔を借景にした景色が素敵。
仮通路のおかげで、手の届きそうな位置に左近の桜がありました。
満開の桜はどこから見ても綺麗。品種は御室桜でしょうか?
宸殿は御殿の中で最も重要な建物。設計は亀岡末吉(1865~1922)で、明治44年(1911)に着工、大正3年(1914)に完成しました。
檜皮葺&入母屋造で、内部は3室からなり、襖絵や壁などには四季の風物が原在泉(1849~1916)によって見事に描かれています。
竜王戦の会場で、原在泉の絵より、それらの展示の方が強調されていました。
どうやら、最年少名人&史上初の八冠全冠制覇を成し遂げた藤井総太(2002~)氏の試合もこの宸殿で行われたようです。
上段の間には、仁和4年(888)第59代宇多天皇の創建にちなみ、888輪の桜の花と幹、土台の全てを紙で制作した作品がありました。
床の間の肖像は譲位後の姿。出家した第1世宇多法皇は、承平元年(931)に崩御するまでこの地に住みました。
また仁和寺は、宇多法皇以降、慶応3年(1867)に第30世純仁法親王(1846~1903)が還俗するまで、歴代住職の多くが天皇家から迎えられたことから、門跡寺院としても知られています。
縁側に座り、宸殿北庭を眺めました。
心が洗われる池泉式庭園。元禄年間(1688~1704)に作庭された事が『御室御記』に記されており、正保2年(1646)の境内再建前後に、ほぼ現在見る形になったと考えられています。
さらに大正時代に小川治兵衛が樹木の手入れや植栽、池護岸の修理等の整備を行い、令和3年(2021)に「御所庭園」として国名勝庭園の指定を受けました。
対岸に霊明殿。
渡り廊下を歩いて向かいます。
霊明殿の本尊は薬師如来。御殿群七棟の内、唯一の仏堂で、仁和寺歴代の位牌などが祀られていました。
霊明殿から見た北庭。
石橋が架けられていて、宸殿とつながっています。
霊明殿で折り返し、元の場所に戻りました。
社務所の庭に芍薬が咲いています。
旧安井門跡蓮華院の寝殿を移して、明治42年(1909)に完成した黒書院。
正面3室、背面3室の計6室で構成されています。
襖絵は、昭和6年(1931)宇多天皇千年御忌の記念事業として、堂本印象(1891~1975)によって描かれたもので、「松鷹」や「秋草」など印象の画題が部屋の名称になっているそう。
この六曲一隻の屏風は、名古屋剛志(1978~)作《Energy Flow》。日本画とデザインを融合した華やかな作品です。
別室には、截金と日本画を融合した作品の展示がありました。
截金師・並木秀俊(1979~)の言葉によると、截金は極薄の金箔を細かく切り貼りして装飾する技法で、仏教美術では欠かすことのできない技だそう。
このとおり、截金には水彩画にない華やかさがあります。
奥の部屋には、仁和寺の管長、瀬川大秀(1947~)氏が制作した《仁和寺門跡御詠》が掲示されていました。3句とも、美しい自然や季節の移り変わり、人間の心情などを繊細に表現しています。
黒書院の縁側に広がる苔むした庭。早くも初夏の陽気すら感じられました。
白書院の前に右近の橘。工事中なのに見れるとは、参拝客に対する気配りが行き届いています。
桜を形どった絵馬。軒下に吊るされていて、風が吹くと木の擦れる音がしそう。
売店は適当なものが見当たらず。
御殿を出ました。
臥龍の松もアングルを変えると、鶴亀の松に見えます。
この季節、美容のために日傘をさした方が良いのですが…。写真を撮る時、邪魔になるのでさせません。
表門を出た所に御室桜。日差しが強すぎて花びらが干からびています。
近くに高松宮殿下参拝記念樹があり、八重の桜が咲いていました。
豪華絢爛な勅使門。宸殿南庭への入口でもあります。
満開の紅枝垂れ。この木の前で写真を撮る人が後を絶たず。
染井吉野は散り始め。お花見シーズンも終わりに近づいています。
石段を昇って中門の前で立ち止まり。
仁王門までの道のりを振り返りました。
つづく