4月10日(金)日を改めて大覚寺。
桜は遠目に見ると綺麗ですが…。
近くで見ると散り始めで、葉っぱが出ていました。
枝垂れ桜は満開。
お堂の桜も期待できそう。
コバノミツバツツジとの濃淡が綺麗です。
手前に解読不能な歌碑。
その向かいに嵯峨天皇の歌碑。これも達筆すぎて読めません。
奥に華供養塔。花の命に感謝を込めて、金剛華菩薩を祀っているそう。
嵯峨天皇の離宮嵯峨院の一部を、天皇崩御の後の貞観18年(876)寺に改め、大覚寺と名付けたのが始まり。初代の門跡には、嵯峨天皇の孫、恒寂法親王が就きました。
その後一時荒廃しましたが、文永5年(1268)に後嵯峨上皇、続いて亀山法皇、後宇多法皇が入寺し、寺を復興するとともに大覚寺統を形成し、持明院統と皇位継承について争ったそう。
元弘3年(1333)、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇によって建武新政が行われますが、足利尊氏と対立し、南北朝時代を迎えます。明徳3年(1392)当寺で南北両朝の講和が成立しました。
寺の歴史はここまで。次は拝観。大玄関は江戸時代の初めに御所より移築されたもので、「式台玄関」とも呼ばれています。
式台玄関の障壁画は、狩野永徳(1543~1590)によって描かれた《松に山鳥図》。
分かりにくいのでズームアップしました。見てのとおり、紅葉が美しい秋の景色です。
松の大木に一羽の鳥。よく見ると、木の根元に菊花が描かれています。
障壁画の前にある輿。九曜菊紋入りで、後宇多法皇が乗っていたと伝えられています。
宸殿は、延宝年間(1673~81)に後水尾天皇より、皇后東福門院和子(徳川2代目将軍秀忠の娘)が使用していた女御御所の宸殿を賜ったもの。入口の格子戸は蔀といい、その留金部分には蝉の装飾があります。
格式高い牡丹の間。画像はありませんが、天井は折上小組格天井になっています。
紅白梅に松の襖絵。
鶴の襖絵。
桜の襖絵。全て狩野山楽(1559~1635)によって描かれた桃山美術の代表的な作品です。
前面の庭に右近の橘。
橙は食用か鑑賞用か分かりません。
左近の梅は写す価値なし。その代わり、勅使門前のしだれ桜が満開でした。
ソメイヨシノと濃淡で咲き誇っていて、とても綺麗です。
庭一面に敷かれた白川砂は大海を表していて、桜は鶴亀を表しているよう。
宸殿と心経前殿を結ぶ村雨の廊下。防犯のため、天井は刀や槍を振り上げられないように低く造られていて、床は鶯張りになっています。
心経前殿は、大正天皇の即位に際し建てられた饗宴殿を式後に賜り移築したもの。大正14年(1925)建造。嵯峨天皇、弘法大師、後宇多法皇、恒寂入道親王の尊像を祀っていて「御影堂」とも呼ばれています。
私が見たかったのは心経前殿から見たこの景色。鶴亀の桜が綺麗。手前に石舞台があり、そこで何か儀式が行われるものと思われます。
心経前殿の裏手に勅封心経殿。大正14年(1925)法隆寺の夢殿を模して再建。殿内には嵯峨天皇をはじめ、後光厳天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、光格天皇の宸輪勅封般若心経を奉安し、薬師如来像が祀られています。
後水尾天皇を祀る安井堂(御霊殿)。京都東山にあった安井門跡蓮華光院の御影堂を、明治4年(1871)に移築。堂内部は、内陣の格天井鏡板に花鳥などを描き、その奥の内々陣の折上の鏡天井に壮麗な雲龍が描かれています。
曲がり角に梵鐘。
お庭の隅に鐘楼。とても小さな鐘楼です。
鶴亀の桜を反対側から撮影。桜はどこから見ても形が整っていました。
江戸時代中期(天明年間)に創建した本堂。正面中央は板唐戸、両脇各2間は蔀戸となっています。「五大堂」とも呼ばれ、堂内には不動明王を中心とする五大明王が祀られていました。
お堂エリアと大沢池エリアを区切る塀。
桜の枝ぶりが良く、手に届く位置にありました。
また、本堂東面の観月台から、大沢池への眺望が広がります。
拝観経路はここで終わり。
来た道を戻って霊宝館に立ち寄り。春季特別展「源氏物語と嵯峨野古典文学めぐり」を見ました。
安井堂から見た庭。白川砂が波のよう。嵐山を借景にした景色が素敵です。
村雨の回廊は鶯張りなのに、何度歩いても無音でした。
宸殿に戻ると、いけばな展の準備が始まっていました。毎年嵯峨天皇の命日(4/15)の前後に開催されるそうです。
新建は江戸中期の建物で、侍者の待合部屋でした。現在は売店として活用されています。
土産に黒糖味のふせん、胡麻どうふ、さしみ湯葉を買いました。全て大覚寺限定品です。
表門を出たのが午後3時過ぎ。この後龍安寺を拝観する予定でしたが、微妙に時間が足らず、諦めました。