圓徳院訪問記の続きです。
ここは三十六歌仙の肖像がずらりと並ぶ歌仙の間。
美人で誉れ高い小野小町。
清少納言の父・清原元輔(908~990)など、百人一首でおなじみの歌人の肖像もありました。
蓮に一匹の鯉を描いた《蓮独鯉襖絵》。
圓徳院の長谷川等伯筆《山水図襖絵》に感銘を受けた、中国出身の藤井湧泉(1964~)画伯が描いた水墨画作品です。
歌仙の間を出て方丈に戻りました。
とても大きな部屋で、このような床の間が4つあり、それぞれに掛軸や書、置物が飾られています。
1つ目の床の間に《宗旦狐》の置物。宗旦狐は江戸時代御所周辺に出没した古狐で、茶の湯の宗匠に化けて、茶会に出たり、僧侶に化けたりしたと言われています。
2つ目の床の間に《木下長嘯子坐像》。長嘯子は歌人名で、俗名は木下勝俊(1569~1649)。ねね様の甥にあたり、圓徳院を建立した木下利房の兄にあたります。
3つ目の床の間に《江戸幕府2代将軍 徳川秀忠公の書簡》。大坂の陣で戦った豊臣家と徳川家ですが、徳川秀忠(1579~1632)公とねね様は、秀忠公の若き時代より仲が良く、早くに実母を亡くした秀忠公にとって、母のような存在であったと伝えられています。
4つ目の床の間に、12歳の時の加藤清正(1562~1611)公が描いた《三面大黒天の図》。三面大黒天像は豊臣秀吉(1537~1598)公の守り仏で、秀吉没後は北政所ねね様が継承し、以後、圓徳院の歴代住職が祀り、現在では境内にお堂が建てられています。
次は方丈北庭拝観。隅っこに茶室。
その前に北庭と共に伏見城より移設された《桧垣の手水鉢》があります。室町時代の石の宝塔の笠石を横に立て、軒の部分を深く切り込み、水穴を掘った珍しい手水鉢です。
方丈北庭は、豊臣秀吉公の伏見城より移築された名勝庭園。一番の特徴は庭石が多いことで、大小合わせて200以上あります。作庭したのは小堀遠州(1579~1647)。秀吉好みのとても迫力のある桃山時代を代表する庭の一つです。
北東側の石の色合いで滝組を表現し、二つの島は左を亀島、右が鶴島と言われています。巨大な天然石の橋が左から右に一、二、三と架かり、中央の紅葉の下に三つ並んだ石が「三尊石」、三体の仏様に見立てられました。
桃山時代、ねね様が見ていた当時そのままの姿で残されており、ねね様にとって安らぎの庭であったことと思われます。
圓徳院を出た後は、三面大黒天を詣りしました。
三面大黒天は、豊臣秀吉公が出世時代に念仏仏とした尊像。大黒天、弁財天、毘沙門天の三面を合わせ持ち、一仏礼拝によって三尊天の御利益を得るという秀吉公らしい信仰です。
こちらは御利益の説明。大黒天は福の神、弁財天は学問や教養、毘沙門天は勝利や子宝などの神として、多くの信仰を集めています。
同じ敷地内に、木下長嘯子を祀る歌仙堂がありました。詩仙堂、雅仙堂と合わせて「京都の三堂」と言われ、学問、詩歌を志す人々の信仰を集めています。
休憩所は大混雑。外国人観光客の姿が目立ちました。
小腹が空いていたので、近くの甘味処でソフトクリームを購入。
税込550円と割高。観光客価格です。
売店2階に掌美術館があり、春季特別展「連綿と続く高台寺のお茶」を見ました。
最後に売店でお土産を物色。
聖護院八ッ橋の春バージョンを購入。限定モノには弱いです。
表門を出た後は京都河原町まで直行。阪急京都線の帰宅ラッシュはなんとか逃れられました。
おわり