日を改めて7月28日(金)ROKKO森の音ミュージアム。

 

 

「牧野富太郎のみちくさ~音楽、書、人々との交流~」を見ました。今回は、「牧野富太郎が訪れた神戸」と「牧野博士が見た~阪神間モダニズム」について投稿します。以下の文章は展示室のパネルから引用しました。

 

 

  牧野富太郎が訪れた神戸

 

明治14年(1881)に、牧野は東京への道のりの中で、蒸気船で高知から神戸へ向かいました。神戸港へ向かう船の上で見た六甲山について、牧野は次のような感想を残しています。

 

 

「私は瀬戸内海の海上から六甲山の禿山を見てびっくりした。始めは雪が積もっているのかと思った。土佐の山に禿山などは一つもないからであった。」

 

 

その頃の六甲山は、燃料材や肥料の為に木材や下草の伐採などにより、樹木はまばらになり、大雨のたびに土砂を流出させており、すっかり荒廃していました。

 

 

その後、明治28年(1895)に六甲山系の植林事業が始められ、マツ、ヒノキ、スギ、カシ、ハゼ、カエデなどが植林されていき、山火事や戦禍、集中豪雨、マツクイムシの被害に合いながらも、木々豊かな現在の姿となりました。

 

 

牧野博士は生涯何度も六甲山に訪れていましたので、徐々に変わりゆく六甲山の姿を見ていたことでしょう。

 

 

  神戸での援助

 

牧野博士が本格的に神戸に関わりを持つようになったのは、大正5年(1916)~昭和16年(1941)の頃です。大正5年(1916)、経済的に困窮に陥った牧野は絶体絶命の中、30年近く蒐集してきた約10万点の植物標本を海外に売ってしまおうと考えました。

 

 

当時の新聞にはそのような牧野の困窮について掲載され、その情報を目にした2人の人物から、援助の申し出がありました。そのうちの一人が、神戸の25歳の大学生(京大法学部)、池長はじめ(1891~1955)でした。

 

 

検討の末、池長による牧野への援助が決まり、貴重な植物標本は大正7年(1918)に会下山えげやまに開所した「池長植物研究所」に保管されます。

 

 

援助の条件のひとつとして、「毎月1回は神戸に行って研究する」とあり、研究所の一般公開に向けて、以後牧野は神戸を度々訪れることになります。

 

 

残念ながら、研究所が一般公開されることはなく、昭和16年(1941)には標本が牧野に返還されることとなります。それまでの25年間は、牧野が神戸に来る機会が多くなり、その間に六甲山に入山することも多かったようです。

 

 

昭和8年(1933)に開園した六甲高山植物園にも開園した次の月には訪れています。

 

 

  牧野博士が見た神戸~阪神間モダニズム~

 

阪神間モダニズム

 

慶応3年(1868)12月7日の神戸港開港以降、国際貿易都市として神戸は発展していきます。この頃の居留外国人による、居留地や異人館街の建築や伝えられた西洋文化は、今日の神戸の異国情緒を形成しています。

 

 

また、官営鉄道(後のJR)や私鉄により、商業都市である大阪を結ぶ鉄道などのインフラが整備され、阪神間は急速に経済発展を遂げました。

 

 

阪急電鉄や阪神電鉄などの私鉄企業は、鉄道を敷くだけではなく、沿線にデパートや行楽地、住宅の開発を行い、人々の流入を促しました。この頃誕生した宝塚歌劇や甲子園球場などは、現在も阪神間文化の象徴となっています。

 

 

六甲山の南側の麓は、良質な水や温暖な気候、喧騒や都市工場の大気汚染から離れた自然豊かな郊外である点から、住宅地としてはとても良い条件が揃っていました。

 

 

特に住吉川近郊の住吉村は「日本一の富豪村」と呼ばれ、財界人や文化人が多く移り住むことになります。池長孟をはじめとした牧野博士の支援者が阪神間に複数いたのも、この地が経済発展し、支援ができる富裕層が多くいたためです。

 

 

居留外国人による異国文化の形成、インフラ開発による富裕層を含む人々の流入により、阪神間にはハイカラでモダンな生活スタイルが育まれていきます。このようにこの地域独特の文化スタイルは、現在「阪神間モダニズム」と称されています。

 

 

この時代に築かれた文化や建築は、今も楽しむ事ができるものもあり、神戸の近代史を今に伝え続けています。

 

 

六甲山のモダニズム文化の前身

 

市街地に近く、夏場は避暑地として最適な六甲山には明治期になると、居留外国人たちが別荘地をもつようになりました。明治28年(1895)に六甲山に最初の別荘を建てたのは、「六甲山の開祖」と呼ばれているイギリス人、アーサー・ヘスケス・グルーム(1846~1918)です。

 

 

彼は、神戸港が開港して間もなく来神した貿易商で、グラバー商会の紹介で、神戸・元町に居を定めたグルームは茶と生糸を中心に貿易を行います。明治13年(1880)に拠点を一度横浜に移しますが、明治22年(1889)に再び神戸に戻り、大正7年(1918)に亡くなるまで神戸の地で暮らしました。

 

 

グルームが六甲山へ友人を招き、余暇を過ごすようになると、六甲山には海外スポーツ文化が持ち込まれるようになります。明治34年(1901)、グルームは六甲山頂の土地を切り開き、ゴルフコースを作ります。そして、2年後には、日本初となるゴルフクラブ「神戸ゴルフ倶楽部」が創設されました。

 

 

レジャーの山になった六甲山

 

六甲山上では、市街地に比べ気温が低いという特徴を活かし、ウィンタースポーツも人気を博しました。六甲山上に点在する採氷用の池では次第にスケートが盛んになりました。

 

 

また、ゴルフにやって来たスイス人がたまたまスキーを行ったことを機に、スキーも親しまれるようになります。また、スポーツとしての登山やハイキング、キャンプなども楽しまれるようになりました。

 

 

大正~昭和初期にかけて、日本の企業も六甲山の観光事業に参与し、バスやケーブルカー、ロープウェーの整備がされたことで観光客も増加し、今日の観光地としての六甲山が始まりました。

 

 

  六甲山の阪神間モダニズム建築

 

神戸ゴルフ倶楽部 クラブハウス

 

明治36年(1903)に「神戸ゴルフ倶楽部」が開場し、その際にクラブハウスは建てられました。現在のクラブハウスは、昭和7年(1932)に、建築家W.M.ヴォーリズ(1880~1964)により建て替えられました。

 

 

ヴォーリズ六甲山荘

 

昭和9年(1934)に、W.M.ヴォーリズ(1880~1964)の設計により個人の山荘として建てられた木造平屋建です。オリジナルの状態がよく保たれた、山荘建築の代表的な作品です。

 

 

六甲ケーブル下駅、山上駅

 

昭和7年(1932)の開業当時、下駅は山上駅と同じ様式で建てられていましたが、昭和13年(1938)の阪神大水害で山から流出した土砂に押し流されたため、現在の駅舎は2代目として活躍しています。

 

山上駅は、昭和7年(1932)開業当時の姿をそのまま留めており、アールデコ調のデザインが残っています。

 

 

六甲山サイレンスリゾート(旧六甲山ホテル)

 

六甲山ホテルは、宝塚ホテルの分館として、昭和4年(1929)に開業しました。しかし、建築からかなりの時が過ぎ、耐震に対する劣化などの理由でホテルは閉館となりました。

 

その後、建造物を壊すことなく修復するという前提のもと、平成29年(2017)に八光自動車工業株式会社が六甲山ホテルの歴史と事業を継承し、建築界の巨匠ミケーレ・デ・ルッキ(1951~)により修復が手掛けられました。

 

 

こうして並べてみると、阪神間モダニズム建築はどれも似たり寄ったりですね。保存状態が良いことから、牧野博士が見た建築物は現在私たちが見ているものとさほど変わりないように思えました。

 

 

つづく