六甲高山植物園で見た「牧野の足あと~神戸で見つける博士と植物~」の続き。ここでは、植物学者・牧野富太郎(1862~1958)の陰の支援者だった日下久悦(1878~没年不詳)氏に贈られた手紙や写真、直筆の書を見ました。

 

  牧野博士と日下久悦

 

日下氏は大阪で薬種業を営む傍ら、地元の山草倶楽部に所属し、高山植物の栽培を趣味にしていました。好きが高じて宝塚市雲雀ケ丘に温室が併設された別邸も持っていたそうです。

 

 

その別邸の名は「高山荘」。この牧野博士直筆の書は、昭和11年(1936)晩秋、日下氏に贈られました。

 

 

「萬花争妍」とは、花が咲き乱れる状態を表した言葉でしょうか?これも牧野博士直筆の書で、日下氏に贈られたものです。

 

 

こちらは訪問先の様子を短文で綴った牧野博士直筆の書。

 

 

昭和10年(1935)9月1日、六甲山でコケモモを見た事などが書かれています。

 

 

牧野博士から日下久悦に贈られた手紙や葉書の中には、六甲藤を送ってほしいとの記述が多く見られます。

 

 

晩年、山を歩けなくなった牧野博士は、以前六甲山で見た藤が新種ではないかと思い、さく葉の仕方まで指南して、度々東京に送ってくれるよう、頼んでいました。

 

 

また、日下家には立派な藤が植栽されていました。一緒に見た六甲山の藤にこだわり、最後まで植物の研究に没頭していた様子が伺えます。

 

 

他、植物採集時の写真。

 

 

採集した植物の写真。

 

 

時にはこんなお茶目な写真を贈ることもありました。

 

 

葉書も然り。禿げ頭の図を贈るなど、日下氏とはよほど親しい間柄だったのでしょう。

 

 

書き損じの原稿用紙を封筒として利用。

 

 

封筒の裏には、自ら考案したまきのマークを書いていました。

 

 

  牧野博士の書

 

 

伊豆の海辺にて 恋を思へばわが身は淋し 伊豆の浜辺の波と暮る

 

 

薔薇の蕾に辰つけりや 可愛あの娘が目に浮かぶ

 

 

 

菊の花 黄色に咲くを 称ふれと 白きくこそは 菊の原になれ

 

 

ことし 添うたる 小枝はいやと あきが来たのか 散るもみじ

 

 

人生

 

昭和六年辛羊正月元日

七十はわが身に嬉し羊年 未だ未だ未だにと未来ある春 七十はなお人間の花盛り 結ぶ良き果をこれよりぞ待つ

 

 

四十七年 大学公職を辞して

長く住みてあきし(飽きし) 古屋をあとに見て 気の清む野辺に われは呼吸せむ

 

 

気になった 我子もどりし 歓喜哉

昭和十六年八月二十一日神戸にて 植物標品を請取る

 

 

パトロン池長孟の英断により、池長植物研究所に長年保管されていた膨大な植物標本と蔵書が牧野博士の元に返された時の喜びを詠んだ書。もしもこの書を池長氏が読むとどう思うでしょうか?牧野博士の自己中心的な一面が垣間見れる一文です。

 

 

  結網帖

 

「結網」とは牧野博士が生涯用いた屋号です。昭和11年(1936)4月11日に撮影した牧野博士75歳の写真にも「結網学人 牧野富太郎」という文字が書かれています。「結網帖」とは牧野博士が親しい人にだけ贈った書を集めたものです。

 

 

臨淵羨魚之 美不如退而 結網 結網学人

牧野富太郎 我齢七十有九 紀元二千六百年 十二月二十九日書之

 

 

「淵に臨んで魚を羨まんよりは、退いて網を結ぶに如かず」中国の『漢書』とう仲舒ちゅうじょ(BC174?~AD104)伝の中の一節で、「淵に臨み魚が欲しいとうらやむより家に帰って魚を捕る網を結いなさい」という意味。実行力を持つことの大切さをうたっている。

 

 

雨煙ふる 六甲山に 登り来て 六甲藤を 採るそ嬉しき

昭和十三年五月十七日 牧野結網

 

 

広島や 伊予松山 土佐高知 採りし草木の 数も知られず

昭和十三年十二月二十一日 牧野結網

 

 

梅雨空の 淡路島山 草を採る

昭和十四年六月十一日 牧野結網 我齢七十八

 

 

植物と 心中するは まだ早く 一歩手前で 命 とりとむ

昭和十五年十一月十三日

豊前犬ヶ嶽にて ガマズミ一種の枝を採らんとして 足滑り岩石にて 背骨を強打せる時

牧野結網

 

 

  図鑑・書籍

 

東京大学の矢田部良吉(1851~1899)教授や松村任三(1856~1928)教授は、牧野富太郎の東京大学への出入りを許した先輩にあたり、牧野富太郎を含めたこれらの人々が、日本の植物分類学の礎を築きました。

 

『日本植物図解』矢田部良吉

明治25年(1892)

 

 

『普通植物図』松村任三

明治34年(1901)

 

 

『大日本植物志』牧野富太郎

明治33年(1900)

牧野富太郎の代表作。東京帝国大学の出版物として発行しているが、実は単独で編纂している。

 

 

精密な図と完璧な記載分だったが、資金難などにより第4集で中断。

 

 

洗練された牧野式植物図の完成が見られる。その構成や解剖図の描き方は、植物学が日本より進んでいた西洋の書物からも影響を受けている。

 

 

『普通植物図譜』牧野富太郎校程・村越三千男写生画

明治41年(1908)

 

 

『日本高山植物図鑑』牧野富太郎

明治41年(1908)

 

 

『大日本植物図彙』伊藤篤太郎

明治44年(1911)

 

 

『日本植物図説集』牧野富太郎

昭和9年(1934)

 

 

『牧野日本植物図鑑』牧野富太郎

昭和15年(1940)

編集に約10年かけた一大プロジェクト。専門家から一般の人まで読み継がれる不朽の名作。

 

 

『牧野植物混混録』牧野富太郎

昭和21年(1946)

自叙伝

 

 

他、牧野富太郎に関する書籍。

 

『牧野富太郎選集』『牧野富太郎植物記』

 

 

『牧野富太郎植物採集行動録』

 

 

『牧野富太郎植物画集』

 

 

展示物を見た後は、売店で買い物。

 

 

今回購入したのは、バイカオウレンをモチーフにしたクリアファイル

 

 

高知県立植物園出版『牧野富太郎植物画集』。

 

 

六甲高山植物園を出て、次の目的地に向かいました。

 

 

つづく