六甲高山植物園で見た「牧野の足あと~神戸で見つける博士と植物~」の続き。今回は「牧野富太郎と神戸」についてです。

 

 

  六甲山の印象

 

牧野富太郎(1862~1958)は自叙伝に、六甲山の印象を次のように綴っています。

 

明治14年(1881)4月 富太郎19歳

 

「高知から蒸気船に乗って海路神戸に向かった。(中略)私は瀬戸内海の海上から六甲山の禿山を見てびっくりした。はじめは雪が積もっているのかと思った。土佐の山に禿山など一つもないからであった。」

 

「六甲山では樹木を薪炭用に伐採していたので、禿山に見えて驚いている。その後、明治37年(1904)には、六甲山造林計画が立てられ、六甲山は現在の緑の山になっていく。」

 

 

  池長植物研究所 パトロン池長孟との出会い

 

富太郎は、研究のために高価な専門書を買い、13人の子供を養うため、月給35円ではまかなえず、大正5年(1916)、3万円(現在の金額では約1億円)の借金を抱えます。

 

そこで貴重な標本の売却を決意。この窮地に名乗り出たのが、25歳の京大生・池長孟と、日立製作所や久原鉱業所を設立した久原房之介(1869~1965)。朝日新聞社の長谷川是閑(1875~1969)の仲介で池長孟に決まりました。

 

池長は富太郎と4つの契約を交わします。①10万点の植物標本を3万円で買い取り、それを富太郎に寄贈する。②月々、若干の援助をする。③会下山の正元館に標本を保管し、新たに植物研究所を設立する。④富太郎は毎月1回神戸に来て研究する。

 

大正7年(1918)富太郎56歳。神戸市兵庫区の会下山で池長植物研究所の開所式を行います。しかし、標本の製作はいっこうに進まず、開館されませんでした。

 

植物研究所を開館する二人の夢は成し遂げられなかったが、神戸という拠点を持って、兵庫県博物学会などと植物採集会を行い、関西をはじめ、西日本に採集や講演をする足掛かりを見つけました。そして、観察会や講演会を通して在野の研究者との交流を深め、植物好きの多くの弟子を育てました。

 

昭和16年(1941)富太郎79歳の時、池長の英断により、池長植物研究所に保管されていた標本や蔵書が富太郎に返還され、東京大泉の華道家・安達潮花所有の標本館に収納されます。貴重な標本が流出したり散逸したりしないように覚え書きも書きました。

 

  牧野富太郎と六甲高山植物園

 

開園当初の六甲高山植物園に牧野富太郎が来園した記録が3度あります。

 

 

昭和8年(1933)6月10日 富太郎71歳

 

「朝神戸着、西宮高等女学校に行き広島からの採集品を圧搾しおく。六甲高山植物園視察の為め同山ケーブルカー発車場に至り、川崎氏と面会、又堀江氏とも面会、同会社の専務取締役の土屋氏と面会。高山園を視、ヤブウツギなどを採集して下山。神戸市に晩餐のもてなしを受け、了て川崎氏宅に至り宿す。」

 

 

昭和12年(1937)8月6日 富太郎75歳

 

「晴。吹田(大阪市吹田市)、六甲山(神戸市行)西尾氏主人、令息、令嬢出入りの人達と同家の自動車にて六甲山の採集に赴き夕刻宅す。六甲山上では六甲高山植物園にて休憩し、園内を見廻る。中村誠忠(初代六甲高山植物園園長)案内し呉る。」

 

 

昭和15年(1940)6月30日 富太郎78歳

 

「雨天。大阪ー六甲山ー大阪 大阪植物同好会、神戸植物会と合同採集会を六甲山上に催す。一部はケーブルにより一部はロープウェイにより往復せり。雨降るを以って高山植物園内の建物内にて講話し、夕刻帰途に就きしが雨止み、道々多少採集出来たり。」

 

 

  関西で深く関わった人々

 

池長孟(1891~1955)

兵庫の大富豪で、郷土愛があり篤志家であった池長通の養子。南蛮美術のコレクターで知られ、昭和15年(1940)、池長美術館(現:神戸市文書館)を開館。現在、池長コレクションは神戸市立博物館に収納されている。

 

 

日下久悦(1878~没年不詳)

明治生まれ、幼名は楢太郎。大阪市浪速区元町で代々薬種業。長じて「久悦きゅうえつ」と襲名するのが日下家で続けられている。打ち身の薬が有名。牧野から贈られた手紙から、陰の支援者であったことがうかがえる。

 

大阪山草倶楽部会員で高山植物の栽培を趣味とし、宝塚市雲雀ケ丘に別邸を持ち、温室も併設していた。立派なロックガーデンもあり、牧野と一緒に移っている写真が残っている。宝塚市雲雀ケ丘花屋敷の景観重要文化財「日下住宅」先代当主。

 

牧野は、関西に来た際、資産家であり好物の牛肉などでもてなし、一家をあげて歓待してくれる日下家に宿泊することが多くなった。晩年、戦時中、食糧難であったため山梨の疎開先から、手紙や葉書で泊めていただいた時の夢のような日々を思い出している。

 

牧野が揮毫した「高山荘」の額は今も雲雀ケ丘の御自邸にある。

 

昭和12年(1937)10月19日高槻市鵜殿のヨシ原にて撮影。中央に75歳の富太郎、その右に日下久悦。

 

鵜殿のヨシは雅楽の篳篥ひちりきの材料として皇室御用達。覺道作次郎が日下家の養子で雅楽奏者であったことから、富太郎は鵜殿に行ったのでしょう。

 

 

芝田音吉(1893~没年不詳)

 

鳥取県生まれ。神戸山草会会員。神戸で草分け的な貸自動車業の運転士となり、その後芝田商店を北長狭通で自営。昭和3年(1928)六甲山の丁字が辻近くで食堂や旅館、山草店を経営。

 

その頃から山歩きを始め六甲山一帯の山草に精通。昭和11年(1936)から三宮神社境内の陳列館3階屋上で栽培展示場を持っていた。昭和10年(1935)、神戸山草会創立時からの中心的存在。

 

六甲高山植物園では、その栽培技術を買われ当時の北村博史園長に頼まれ、ヒマラヤ学術探検隊から頂いたヒマラヤのシャクナゲなど探検子からの栽培や鉢管理を圃場で担当。

 

牧野富太郎との交流は深く、自宅に宿泊することも多く、娘の本子は「父音吉が六甲山で旅館を経営している時、よく泊まられて面白いことを言っては母を笑わせていた。」と語る。

 

 

川崎正悦(1893~1978)

 

本名は川崎正。青森県出身。創立直後の灘中学校(現:灘高校)教諭。博物教師。牧野の弟子で、大正11年(1922)から昭和31年(1956)にかけて葉書273枚、手紙92通が送られている。

 

ダジャレと酒とハイマツが大好きで、自宅でもたくさんのハイマツを栽培していた。

 

神奈川や東京の小学校教師だった時、牧野に師事。昭和3年(1928)灘中学校転任後は、山鳥吉五郎らと兵庫県博物学会を発足当時から盛り上げた。

 

多くの植物を志す人の育成に尽力。昭和8年(1933)、灘中学校の校庭の一隅に田中秀三郎(大阪山草倶楽部)の協力により本格的にロックガーデンを構築。エーデルワイスやチングルマなど127種が植えられていた。

 

六甲山系の植物調査には早くから着手。牧野が六甲山を歩く時、芝田音吉らと同行。当園のロックガーデン日本区中段にあるハイマツは、川崎正悦の遺品の鉢を神戸山草会初代会長が譲り受け、それを寄付していただき、50年ほど前にロックガーデンに移植したもの。

 

人工栽培でこれほど大きいものは珍しく、そのハイマツの根元にあった一握りのバイカオウレンも移植して、今の大群落になっている。

 

 

その他

 

大阪山草倶楽部より、鯛天源三郎(大阪市職員)・田中秀三郎(庭師)・堀江総男(六甲高山植物園の設計者)、神戸山草倶楽部より山鳥吉五郎(『六甲山の植物』の著者)、へちま倶楽部より、西村貫一(西村旅館長)・長谷川如是閑(大阪朝日新聞社のジャーナリスト)も、富太郎と深く関わっていました。

 

 

ちなみに、六甲高山植物園は、大屋霊城(1890~1934)博士の指導、堀江総男(生没年不詳)氏設計により、昭和7年(1932)から3年がかりで開設工事を行い、昭和8年(1933)5月、 六甲越有馬鉄道株式会社の経営により開園。富太郎は開園後に来園しただけで、開設工事には関わっていないようです。

 

 

  牧野富太郎が発見した植物

 

ノジギク

 

兵庫県の県花。富太郎が姫路市大塩のノジギクを「日本一のノジギク群落」と絶賛。昭和5年(1930)頃、何度も山鳥吉五郎が案内している。六甲山でもノジギクを採るという記録がある。

 

ノジギクは牧野が明治17年(1884)高知県吾川郡の仁淀川沿いで発見、明治23年(1890)に野路菊と名付けた。

 

 

アリマウマノスズクサ

 

昭和12年(1937)6月7日、富太郎は、神戸市北区五社駅から有馬駅にかけて兵庫県博物学会主催の植物採集会で見つけて和名をつけた。

 

ちょうど同じ日に六甲山頂付近では、六甲山の植物に詳しい山鳥吉五郎(西宮高等女学校校長)が、六甲越有馬鉄道株式会社主催の別の植物採集会で、極楽茶屋付近で発見して新種発見と思っていたが、牧野が既に「アリマウマノスズクサ」と名前をつけた事を後で知った。

 

 

ヒメアジサイ

 

別名ニワアジサイ。エゾアジサイの花序全体が装飾花になったもの。牧野が長野県戸隠付近で見て命名。六甲山は花崗岩で酸性土壌であることに加えて降水量も多く昼夜の温度差があることから「六甲ブルー」と言われるほど鮮やかに発色する。

 

『六甲あれこれ~六甲山をめぐる物語(村上定弘著)』には、「六甲山上のアジサイ、戦中から戦後にかけての十数年訪れる人もなく寂れ、そのことを嘆き悲しんだ阪急鉄道創業者・小林一三氏が六甲山をアジサイの山にしたいという思いから苗の提供を申し出られ、相談を受けたのが当時六甲山小学校の教師の林中元氏。」との記述がある。

 

やがて、小林一三(1873~1957)が提供した苗が育ち、六甲高山植物園にヒメアジサイの群落ができた。

 

 

  牧野の足あとマップ

 

兵庫県西部での活動

姫路市新宮町でコヤスノキを採集(1921/12)。姫路市大塩でノジギクの群落を発見(1930/11)。正福寺で桜を見る(1935/4)。氷ノ山や鉢伏山、妙見山で採集活動を行う(1937/8)。城崎の小学校で講演を行う(1937/8)。

 

 

兵庫県東部での活動

高取山でカナメモチの果実を採集(1922/2)。岡本の梅林を見に行く(1922/2)。有馬文化村でアリマグミを採集(1928/6)。アリマウマノスズクサの果実を採集(1936/8)。

 

六甲高山植物園での講和(1945/6)の他、摩耶観光ホテル(1931/2)や西宮高等女学校(1930/12)、伊丹中学校(1935/5)、尼崎市内の小学校(1922/9)にて講演。諏訪山小学校校庭にて植物の指導を行った(1938/5)。

 

 

それにしても、牧野博士の交友関係と行動範囲の広さには驚かされました。『らんまん』でも、近くにいたら振り回されて困るけれど、ついつい世話を焼きたくなる人物像が描かれていましたね。

 

 

今日はここまで。次に続きます。