7月21日(金)六甲高山植物園訪問記の続きです。

 

 

ここは売店内の映像室。植物学者・牧野富太郎(1862~1958)に関する展覧会「牧野の足あと~神戸で見つける博士と植物~」を見ました。まず始めに略歴と業績について。以下の文章は、展示室のパネルから引用しました。

 

 

  牧野富太郎の歩み

 

文久2年(1862)高知県高岡郡佐川町の裕福な造り酒屋の一人息子として誕生。祖母により養育される。牧野氏が生涯愛したバイカオウレン。『らんまん』では、早世した母との思い出の花として描かれていました。

 

 

私塾で広い知識を身につけていたため、小学校は自主退学、独学で植物の勉強に励む。15歳で佐川小学校の臨時教員として教鞭をとり、17歳で高知師範学校の教師・永沼小一郎を通じて欧米の植物学に触れ、当時の著名な学者の知己も得るようになります。

 

 

明治14年(1881)19歳。東京で第2回内国勧業博覧会を見学。書籍や顕微鏡も購入し、感得した東京の息吹きを郷里に広めた。『らんまん』では、竹雄と牛鍋をつつくシーンがありましたね。

 

 

明治17年(1884)22歳。上京。東京帝国大学理科大学(現:東京大学理学部)植物学教室の出入りを許される。主任教授、矢田部良吉(1851~1899)の助手を務めました。『らんまん』で田邊教授のモデルになった人物です。

 

 

明治20年(1887)25歳。「植物学雑誌」創刊。

 

 

明治21年(1888)27歳。「日本植物志図篇」を自費で創刊。この頃、小澤壽衛すえと所帯を持つ。二人を結んだのは「かるやき」。初めて上京した時から牧野氏は、菓子屋の娘、嘉衛に一目ぼれし、甘党だった事から足繁く通いました。

 

 

明治22年(1889)27歳。日本人で初めて新種としてヤマトグサに学名「Theligonum japonicum」をつけて発表。こうした事が矢田部教授の面目をつぶしたのでしょう。学術の世界も妬みや嫉みが渦巻きます。

 

 

明治23年(1890)28歳。植物学教室への出入り禁止が言い渡される。研究の場を失い、ロシアの植物学者マキシモヴィッチを頼ろうとするが叶わず。「植物学雑誌」に日本新参の種としてムジナモを発表。

 

 

明治26年(1893)31歳。東京大学理学部植物学教室の主任教授、松村任三じんぞう(1856~1928)により誘われ助手として研究が続けられるようになった。

 

 

明治33年(1900)38歳。代表作「大日本植物志」第一巻第一集を発行。

 

 

明治39年(1906)44歳。「日本高山植物図譜」刊。画像は第二巻です。

 

 

明治42年(1909)47歳。「植物学雑誌」にラフレシア科の新属新種としてヤッコソウを発表。

 

 

明治45年(1912)50歳。東京帝国大学理科大学講師になる。

 

 

大正5年(1916)54歳。「植物研究雑誌」自費創刊。経済が極度に困窮して神戸の池長はじめ(1891~1955)より援助を受ける。池長氏は当時25歳で京都帝国大学の学生でした。

 

大正7年(1918)56歳。会下山えげやまに池長植物研究所開所。毎月1回神戸に来て研究をするという約束でしたが、なかなか約束を果たせず、標本の製作は一向に進まなかったそうです。

 

 

大正15年(1926)64歳。東京府北豊島郡大泉村(現在の練馬区立牧野記念庭園)に居を構える。『らんまん』にも、関東大震災の後、標本を保管するために広い土地を買ったと描かれていましたね。

 

 

昭和2年(1927)65歳。理学博士の学位を受ける。仙台で新種のササを発見する。『らんまん』で牧野氏は、図鑑を完成させるまで大学の仕事はしないと言っていましたが、周りの人たちに懇願され、引き受けていました。

 

 

昭和3年(1928)66歳。妻、壽衛が54歳で亡くなる。前年発見した新種のササに「スエコザサ」と命名。妻への愛が感じられます。

 

 

昭和12年(1937)75歳。「牧野植物学全集」の出版により朝日文化賞を受賞。画像は祝賀会の時の色紙です。祝賀会は阪神在住の同好者の提唱にて、4月30日に甲子園ホテルで開かれました。

 

 

昭和14年(1939)77歳。東京帝国大学の講師を辞任する。この天真爛漫な笑顔が多くの人に愛され、小学校中退の学歴でも植物学の世界を渡っていけたのでしょう。

 

 

昭和15年(1940)78歳。大分県犬ヶ嶽で採集中に転落事故を起こし、年末まで別府で静養。

 

 

昭和16年(1941)79歳。旧満州へサクラ調査に赴く。8月、池長孟より標本や蔵書が牧野富太郎に返還される。返還された書物は東京大泉の華道家、安達潮花所有の標本館に収納されたそうです。

 

 

昭和20年(1945)83歳。山梨県に疎開して10月に東京に帰る。画像は、牧野博士が疎開先から日下くさか久悦きゅうえつ氏に宛てた手紙です。日下氏は大阪市で薬種業を営み、大阪山草倶楽部に所属し、高山植物の栽培を趣味にしていました。

 

 

昭和21年(1946)84歳。長年蓄積した膨大な知識と和漢の豊かな教養をもとにした個人雑誌「牧野植物混混録」創刊。

 

 

昭和28年(1953)91歳。「原色日本高山植物図鑑(誠文堂新光社)」「植物随筆一日一題」刊。

 

 

昭和31年(1956)94歳。風邪をこじらせ寝込む日が増える。昭和天皇よりお見舞いのアイスクリームが届く。「植物学九十年」「牧野富太郎自叙伝」刊。

 

 

昭和32年(1957)94歳。1月18日、家族に見守られ永眠。没後文化勲章授与。

 

 

昭和33年(1958)高知県立牧野植物園開園。東京都立大学理学部牧野標本館開館。練馬区立牧野記念庭園開園。

 

 

  牧野富太郎の業績

 

業績1.日本の植物分類の父

 

「私は植物の愛人としてこの世に生まれ来たように感じます。あるいは草木の精かも知れんと自分で自分を疑います。」『牧野富太郎自叙伝』より

 

 

一生涯を通して植物分類学の研究に打ち込み、新種や新品種など約1,500種の植物に学名をつけた。また、日本全国で採集調査を行い、生涯に40万枚とも言われる植物標本を収集。

 

 

植物関連の蔵書は45,000冊。教育普及活動にも全国で尽力し、地元の植物研究家、愛好家の育成に努めた功績も大きい。今も「牧野日本植物図鑑」は専門家から一般の人まで広く読まれている。

 

 

業績2.精密な「牧野式植物図」

 

鋭い観察力と巧みで精緻な天性の画才で、発見した植物を正確忠実に写生し、その描画の才能は自他ともに認め自らの研究を大いに助けた。植物の典型的な形にこだわり、多数の個体の中から最も代表的な個体を選んで写生している。

 

 

顕微鏡やルーペを使って細部まで描かれた植物図は、植物分類学に必要な種の形態を完全に描き出している。また、年間を通して花や種子などを描きため、その部分図を1枚の図に再構成し、植物の特徴を表す多くの情報が盛り込まれるように工夫している。

 

 

雑誌や図鑑の製作に、石版印刷(リトグラフ)を使用。

 

 

リトグラフは、水と油の反発作用を利用する版画の一種で、インクが乾くと印刷は不可能になるため、量産しても1度に200枚が限度。用いた原図は洗い流すため再版もできない。明治19年(1886)、神田の印刷工場に通い印刷技術を習得した。

 

 

NHK朝ドラ『らんまん』は、成人した子供が7人いたのに4人しか描かれていないなど、若干脚色もありますが、経歴は事実通りだったのではと思います。明日で最終回。妻、壽衛と夢見た図鑑の完成で終わるのでしょうか。

 

 

つづく