6月7日(水)舞子公園散策は北地区からスタート。

 

 

一台でいろいろな機能を備えた遊具。

 

 

いつもこの遊具の周りは園児でいっぱいですが…。

 

 

この日は珍しく空いていました。

 

 

時刻は午前11時半。園児たちもお昼を食べに帰ったのかもしれません。

 

 

遊歩道を奥まで歩くと、あずまやがありました。

 

 

通り抜けはできないのでUターン。

 

 

出入口に公衆トイレがあります。

 

 

北地区を出て、中央地区に入りました。

 

 

中央地区はJRの沿線にあります。

 

 

立派な公衆トイレ。

 

 

この辺り一帯は「舞子浜遺跡」と呼ばれているそう。

 

 

説明板によると、昭和35年(1960)の発掘調査以来、多数の埴輪棺が出土し、公園一帯が古代の墓地であることが判明。古墳時代(3~7世紀)の人骨も出土しています。

 

 

さらに足を進めると、「舞子の松林」に関する説明板がありました。

 

 

古くから詩歌にも詠まれ、多くの人に親しまれてきた舞子ヶ浜。享保3年(1803)に書かれた『播州名所巡覧図絵』にも風光明媚な地として紹介されています。

 

 

明治33年(1900)には、初の県立公園として「舞子公園」が開設されました。しかし「公園」施設と呼ばれるようなものはなく、「鳳凰の舞うがごとし」と賞された老松の林と海峡の風景が広がる公園でした。

 

 

戦前まで松林は保たれていましたが、戦後になって、台風、車の排気ガス、病害虫などにより弱り始め、昭和30年代後半には、松の総数は約1,200本で、その内約150本が老松という最悪の状況になりました。

 

 

このため専門家の指導を受け、防風防潮林の設置、園路の整備、客土きゃくど施肥せひ、肥料植物の植え付け、他の海岸線に育った松を植えるなどの対策が行われました。

 

 

この対策により、昭和40年代後半から成果が現れ始め、松林が回復してきました。

 

 

昭和61年(1986)から始まった「明石海峡大橋」の建設とその関連工事のため、順調に育ってきた1,000本以上の松が移植されました。そして、新しく南側の埋立地が公園となり、390本の松が植えられたのです。

 

 

中央地区を出て、南地区に入りました。

 

 

芝生広場の向こうに孫文記念館があります。

 

 

時計台のてっぺんに風見鶏が立つこのお洒落な建物は、公園管理事務所です。

 

 

明石海峡大橋の近くにある円いオブジェが気になり、近づいてみました。

 

 

そのオブジェの名は《夢レンズ(2003)》。彫刻家・牛尾啓三(1951~)による作品で、三種の異なった石肌によるメビウスの輪は人、自然、科学を、そして明石海峡大橋が結んだ本州と淡路、四国を表しているとか。

 

 

遊歩道から見た明石海峡大橋はとても大きく、迫力がありました。

 

 

孫文記念館の裏手に回りました。

 

 

入口に、中国の革命家であり政治家であり、思想家であった孫文(1866~1925)の像があります。

 

 

今回の散策、時間に制約があったので、入館せず。

 

 

近くに、獅子文六(1893~1969)の小説『バナナ(1959)』より、移情閣(孫文記念館の前身)の節を抜粋した碑がありました。

 

 

ようやくアンカレイジ(明石海峡大橋のメインケーブルを固定させるための巨大なコンクリートブロック)の全貌が見える場所まで来ました。

 

 

こちらは、小林賢二(1964~)の彫刻作品《循環-根上がりの松(2005)》。無限に続く自然の循環を題材として制作されたもので、根上がりの松の再生事業のシンボルとして、94点の応募作品から大賞に選ばれたそうです。

 

 

公衆トイレの上に中国風のあづまや。自販機も充実していて散歩の休憩に良さそう。

 

 

旧武藤山治邸は、「鐘紡の中興の祖」と言われ、衆議院議員として活躍した武藤山治(1867~1934)が、明治40年(1907)に舞子海岸に建てた住宅です。

 

 

1.5mの盛り土の上に「根上がり松」がありました。再生プロジェクトは平成16年(2004)に始まり、風や波しぶきの影響で枯れる事を考慮して、舞子公園やその周辺で育った松の苗を多めに植えたそうです。

 

 

説明板によると、この中から成長の様子を見て、最終的に1~2本の松にするとの事。松が大きくなるにしたがって盛土を徐々に取り除いて「根上がりの松」にしていくそうです。

 

 

来た道を戻りました。

 

 

出入口付近に明治天皇の歌碑があります。

 

 

説明板によると、明治天皇は舞子の景色を好み、明治18年(1885)以来、7回にわたって行幸されたそう。歌碑には明治天皇が詠んだ舞子の歌が3首、刻まれています。

 

 

歌碑の句を読んで午前の散策はおしまい。横断歩道を渡って舞子ビラに戻りました。