先日の続き。
噴水沿いを歩き、石段を昇りました。
高台に、田邊朔郎像とその功績を讃える碑があります。
田邊朔郎(1861-1944)は、琵琶湖疎水や蹴上発電所の工事に携わった土木工学者。角倉了以とともに「水運の父」と称されています。
高台から公園を見下ろしました。
インクライン沿いに、蹴上発電所に水を送る鉄管があります。
蹴上発電所は、琵琶湖疏水を利用した日本初の一般供給用水力発電所。「(第1期)蹴上発電所」は、明治24(1891)年に運転を開始したそう。
高台を降りて、柵沿いを歩きました。
柵の外に越流堤。
前日の雨で水かさが増しています。
ここまで来ると、あのインクラインの賑わいが嘘のよう。
柵の中は京都市上下水道用地で立入禁止でした。
枝ぶりの良い桜。
手に届きそうな位置に咲いています。
桜の木の下に、インクライン運転の仕組みを説明する看板がありました。
看板の前に三十石船の復元模型。
向かいに疎水建設工事で殉職した人々の慰霊碑があります。
この慰霊碑は、明治35(1902)年に田邉朔郎が私費で建立したもの。背面に殉職者17人の氏名が刻まれていました。
その隣は義経地蔵。義経伝説と大日如来の信仰が一体化し、義経大日如来とも呼ばれたそう。厚肉彫りの阿弥陀坐仏で、舟形光背を背負っています。
蹴上は東海道から九条山を越えて京都に入る東玄関口にあたり、義経地蔵が地名の由来になったとも言われています。
平家の武士、美濃国の関原与市重治の従者の一人(正確には従者の馬)が、日の岡峠で湧水を撥ね、義経の衣を汚したのが、蹴上の語源になったとか。
義経地蔵の左手に、本願寺水道の源がありました。
防火用水道の水源地で、埋設された約4.6㎞の水道管を通り、琵琶湖疏水の水を東本願寺まで運んでいます。
シダレザクラも満開。
ソメイヨシノより色が濃く、快晴の空に映えます。
船溜に架かる橋から写真を撮る人が後を絶たず。私も彼らに倣い、そこから写真を撮ってみました。
なるほど。インクラインの桜を一望できます。
反対側には旧御所水道ポンプ室があり、御所水道として京都御所に防火用水を送水していたそう。
蹴上疎水公園を出ました。
インクラインの土手に植えられた桜が間近に見えます。
蹴上発電所に向かって延びる2本の水圧鉄管。ここからの眺めが一番です!
柵沿いの道を歩きました。
蹴上発電所取水口水門は、明治25(1892)年に琵琶湖疏水を利用して造られた、蹴上発電所の関連施設。
遊歩道を曲がり、疎水分線沿いの道を歩きました。
疎水分線は、沿線各地への水力利用、灌漑用水、防火用水の供給を目的に設置された施設です。
ここから先、行き止まり。
疎水分線から外れ、細い道を下ると…。
南禅寺水路閣に出ました。
南禅寺水路閣は、明治21(1888)年に完成した琵琶湖疏水の水路橋。南禅寺境内を通過するため、周辺の景観に配慮して田辺朔郎が設計デザインしたそう。
水路閣の中で記念撮影する人が後を絶たず。ここは撮影スポットの争奪戦でした。
つづく