11月28日(日)午後。

 

相楽園からバスで再度ふたたび公園に移動。


 

外国人墓地一般公開集合場所(森のひろば)への道を歩きました。


 

公園入口の紅葉も見頃を迎えています。


 

広々とした遊歩道を歩きました。


 

紅葉狩りを兼ねての散策。


 

なかなか足が進まず、バス停から集合場所まで20分かかりました。


 

受付を済ませた後は、係員の指示もあり、公衆便所へ直行。


 

公衆便所裏側の紅葉も綺麗でした。


 

13時20分。集合の合図がかかって紅葉狩りは切り上げ。



外国人墓地の案内板の前まで歩き、係員の説明を聞きました。


 

こちらは通常公開エリアにある案内板で、概要が簡潔にまとめられています。


 

外国人墓地の門が開き、中に入りました。


 

配置図はこちら。反時計回りで巡回。見学順に番号を振っています。

 

 

芝生公園墓地(配置図2番)

 

百数十名の身寄りのない人々の墓です。手前に英国人博物学者、リチャード・ゴードン・スミス(1858-1918)の墓があります。


 

スミス氏の著書『ニッポン仰天日記』によると、明治39年(1906)に六甲山で新種の野ネズミを発見。後にそのネズミは彼の名にちなんで「スミスネズミ」と命名されました。

 


D地区(配置図4番)

 

こちらは、英国人実業家で範多財閥・大阪鉄工所(現:日立造船)を創業したエドワード・ハズレット・ハンター(1843-1917)の墓です。ハンター氏は、大阪の薬問屋の娘・平野愛子と結婚して日本に帰化。その住居は王子公園内にあり、北野町のハンター坂にその名をとどめています。

 

 

同じくD地区に、日本で最初に蒸気機関車を運転したと言われているジョン・ホール(生没年不詳)の墓がありました。

 

 

小野浜地区(配置図6番)

 

こちらは慶応4年(1868)1月、大阪湾で遭難したアメリカ海軍軍人の慰霊碑です。2人の海軍兵士と10人の水兵が眠っています。


 

また、慰霊碑の横にある折れた石柱は、志半ばで亡くなった事を表しているとか。ここだけでなく、あらゆる所で見かけました。

 

 

隣に慶応4年(1868)2月の堺事件で犠牲になったフランス兵11名の墓があります。なお、フランス側の命令により、妙国寺で自刃した土佐藩士11人は、近くの宝珠院に葬られました。

 

 

最初に外国人墓地として開設された小野浜墓地から移された墓が並ぶ小野浜地区。


 

手前の墓には、アメリカの宣教師で、パルモア女学院を開設したジェームス・ウィリアム・ランバス(1830-1892)が埋葬されています。息子のウォルター・ラッセル・ランバス(1854-1921)も、関西学院の創立に貢献しました。


 

また、この辺りにイギリスの一等航海士で、初代神戸港長を務めたジョン・マーシャル(1833-1887)の墓があります。


 

ズームアップしたのがこちら。マーシャル氏が描いた神戸港の設計図は今も残っていて、大事に保管されています。

 

 

こちらは、外国人居留地で消防隊長を務めたアレキサンダー・キャメロン・シム(1840-1900)の墓です。シム氏は、外国人スポーツ・クラブKR&ACを創り、近代スポーツの振興に尽くす一方、日本で最初にラムネを造るなど多方面で活躍しました。シム氏の活躍を顕彰する記念碑は、今も神戸三宮の東遊園地に保存されています。

 

 

こちらは、神戸製紙所の創立者、ジョン・ウォルシュ(1829-1897)とその妻・山口りんの墓です。兄のトーマス・ウォルシュ(1827-1900)の墓も同じ小野浜地区にあります。

 

 

B地区(配置図8番)

 

右中央に神戸北野にある「ラインの館(旧ドレウェル邸)」の女主人、ジョセフィーヌ・ドレウェル(生没年不詳)の墓があります。

 

 

A地区(配置図9番)

 

こちらは日本のパンや洋菓子の礎を築いた、フョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフ(1880-1971)と、ハインリヒ・フロインドリーブ(1884-1955)の墓です。息子でコスモポリタン製菓の創業者、ヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフ(1911-1999)の墓も近くにあります。

 

 

ここでロシア正教の墓の形について説明がありました。

 

上の横棒はキリスト教の罪状で、下の傾いている横棒は一緒に処刑された2人の囚人です。そのうち、右の下がった所はキリストを罵った囚人で、左の上がった所はキリストを救世主と認めた囚人を表しています。


 

また、墓石に彫られた文字「RIP」は、「安らかにお眠りください。」という意味を表しています。

 

 

通常開放エリア(配置図10~11番)

 

順路を回った後は、スロープを上って通常開放エリアへ。


 

こちらは勇士の慰霊塔


 

案内板の解説によると、第一次世界大戦で祖国のために戦死したイギリス人及びフランス人19名の御霊が祀られているとの事。


 

慰霊塔には19人の名が刻まれていて、その中に、英国人建築家、アレクサンダー・ネルソン・ハンセル(1857-1940)の息子、ケネス・ハンセルの名がありました。


 

最後に礼拝堂の中でアンケートを記入。1時間半はあっという間で、足腰よりも頭が疲れました。


 

解散後は展望台へ直行。


 

山に囲まれた住宅街の景色。おそらく箕谷みのたに辺りでしょうか。


 

メタセコイアの木が秋らしく、とても綺麗でした。


 

眼下に外国人墓地が見えます。


 

ズームアップしてみましたが、スマホだとこれが限界でした。


 

再びズームを戻して広域を撮影。


 

展望台と礼拝堂の間に、係員から説明のあった小野浜移転記念碑がありました。


 

英語で読めませんが、おそらく小野浜地区移転の経緯が書かれているのでしょう。


 

勇士の慰霊塔を見納め。


 

スロープを下って通用門へ。


 

外国人墓地を出て再度公園に向かいました。