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散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

6月4日(水)京都国立博物館。当日券売場は長蛇の列。幸い前売券を買っていたのでスムーズに入れました。

 

 

「日本、美のるつぼー異文化交流の軌跡ー」は、「世界に見られた日本美術」「世界に見せたかった日本美術」「世界と出会った日本の美術」という3つの視点から日本美術の名品をみつめる展覧会。

 

 

大阪市立美術館の「日本国宝展」や奈良国立博物館の「超国宝」に匹敵し、国宝18件、重文53件を含む約200件と、国宝の出展数は一番少ないものの、最も万博のテーマを意識し、「世界と出会う、日本美術」として、多角的な視点で紹介しています。

 

 

音声ガイド貸出コーナーの前にも列ができていて、私の後3人目で打ち切られていました。そんなわけで、人ごみに揉まれながらも無事展示室に到着。今回は展示の前半を振り返ります。以下の文章は公式サイトから引用しました。

 

 

  プロローグ 万国博覧会と日本美術

 

Ⅰ 世界に見られた日本美術

 

明治の日本が国際社会に乗り出した頃、西洋の美術市場には、江戸時代以前から輸出されていた伊万里焼や輸出漆器に加え、廃刀令や洋装のために無用となった刀装具、印籠、根付、そして浮世絵などがあふれ、日本美術のイメージを作り上げていました。芸術の都パリでは、蒐集家や美術評論家のあいだでちょっとした日本ブームが起き、北斎(1760~1849)や光琳(1658~1716)が注目されました。

 

富嶽ふがく三十六景《神奈川沖浪裏おきなみうら

葛飾北斎画

江戸時代 天保2(1831)年頃

山口県立萩美術館・浦上記念館蔵

 

富嶽三十六景《山下白雨さんかはくう

葛飾北斎画

江戸時代 天保2(1831)年頃

山口県立萩美術館・浦上記念館蔵

 

富嶽三十六景《凱風がふう快晴》

葛飾北斎画

江戸時代 天保2(1831)年頃

大阪 和泉市久保惣記念美術館蔵

 

 

当時、欧米各地で次々に開催された万国博覧会には、工芸品や工業製品などを主に見せる工芸館と、西洋の芸術観にもとづく絵画や彫刻を展示する美術館とがありました。明治政府は、手探りながら、欧米で売れる品をみつくろい殖産興業を図りつつ、西洋の美術観に即した鑑賞用の作品の制作も奨励して万国博覧会へ出品し、国威発揚に努めました。

 

 

 

Ⅱ 世界に見せたかった日本美術

 

明治政府は、万博参加にあたり、西洋の異国趣味を満たすのではなく、日本が「美術」や「歴史」をもつ「文明国」であることを示そうとしました。明治33年(1900)のパリ万博では、日本初となる西洋的方法論による日本美術史をフランス語で編纂し、豪華な装丁を施して展示しました。

 

Histoire de l’Art du Japon 『日本美術史』

1900年パリ万国博覧会臨時博覧会事務局編

明治33(1900)年刊

京都国立博物館蔵

 

 

現在でいう弥生時代から説き起こすこの日本美術史には、岡倉天心(1863~1913)らによる古社寺での宝物調査の成果が生かされ、現在では国宝や重要文化財となった名品が収録されています。翌年には、同書の日本語版も刊行され、これがいわば政府公式の美術史となり、現在の私たちがイメージする日本美術史の基礎を築きました。

 

 

一方、光琳風の作品が欧米で人気を博したことから、日本でも宗達に端を発する「琳派」という概念が形づくられ、日本美術の典型として語られるようになります。現代の私たちが考える日本美術史は、少なくともその一面において、近代西洋という鏡に写した自画像として生みだされたのです。

 

【国宝】風神雷神図屏風

俵屋宗達筆

江戸時代(17世紀)

京都建仁寺蔵

 

 

 

  第1部 東アジアの日本の美術

 

Ⅰ 往来がもたらす技と美

 

明治政府は、国外に向けた日本らしさの強調に尽力しましたが、実際に日本に遺された品々の多くは異文化の要素を豊かに示し、海外との活発な交流を物語ります。

 

 

弥生時代には、大陸との往来が盛んとなり、日本も広域的なアジア文化の一員となりました。青銅器や鉄器、絹織物、ガラスなどの製品とともに新技術がもたらされ、じきに日本でも作られます。3世紀中頃に始まる古墳時代には、 学問や文化も輸入され、6世紀中頃には朝鮮半島から仏教が伝来しました。

 

【重文】突線とっせん鈕五式ちゅうごしき銅鐸どうたく

滋賀県野洲市小篠原字大岩山出土

弥生時代(1~3世紀)

東京国立博物館蔵

 

 

【重美】埴輪 くわかつぐ男子

伝群馬県太田市脇屋町出土

古墳時代(6世紀)

京都国立博物館蔵

 

 

7~8世紀の飛鳥、奈良時代には遣隋使、遣唐使が派遣され、中国の最先端の品々や技術とともに政治制度も導入されます。さらには中央アジアの芸能など、唐との交流を通して国際色豊かな文化が日本列島に定着した痕跡がみられます。日本がシルクロードの終着点と評される由縁です。

 

三彩明器

伝洛陽北邙山ほくぼうざん出土

中国・唐時代(8世紀)

京都国立博物館蔵

 

 

Ⅱ 教えをもとめて

 

8~9世紀にあたる奈良時代から平安時代の初めにかけて、大陸と日本列島を往き来した外交使節の船には、学者や技術者、僧侶も同乗しました。使節は、政治や経済の駆け引きをおこなうだけでなく、工芸品、先進技術、最新の思想を列島にもたらしました。

 

【国宝】宝相華ほうそうげ迦陵頻伽かりょうびんが蒔絵𡑮まきえそく冊子箱さっしばこ

平安時代 延喜19(919)年

京都仁和寺蔵

 

 

 

特に仏教は、病を治し、死後の平安を保証し、国を護り、天候を操る力として希求されたのです。命がけの船旅をいとわず、鑑真(688~763)のような高僧が大陸から渡来して仏教の規範を初めて伝え、日本からは最澄(766/767~822)、空海(774~835)、円仁(794~864)、円珍(814~91)らが唐へ渡り、経典や図像、儀式の規則(儀軌)を持ち帰りました。

 

 

仏教の渡来によって、インド、中国、朝鮮半島、東南アジア地域の豊かな宗教美術が列島にもたらされ、平安時代の宮廷儀礼や寺院の堂内を彩りました。

 

【重文】宝誌和尚ほうしおしょう立像りゅうぞう

平安時代(11世紀)

京都西往寺蔵

 

 

 

Ⅲ 唐物ー中国への憧れ

 

武士が台頭し、12世紀末に鎌倉時代を迎え、日本各地で商工業が発達しても、中国の魅力が衰えることはありませんでした。経典や美しい陶磁器、絹織物などを求めて、公私を問わず続けられた渡海は、禅宗に代表される新しい仏教をもたらし、日本の文化芸術に新風を送り続けました。

 

【国宝】華厳宗祖師絵伝 義湘絵ぎしょうえ 巻第二(部分)

鎌倉時代(13世紀)

京都高山寺蔵

 

 

【重文】耀変天目ようへんてんもく

中国・南宋時代(12~13世紀)

滋賀MIHO MUSEUM蔵

 

 

14~16世紀の室町時代にも、武士や僧侶は「唐」に憧れました。模倣すべき手本として唐物を珍重し、稀少で高価な本物が手に入らないときは、もっともらしい代替品を作り上げました。その経験から独自の製品が生み出され、新たな流派も築かれました。模倣と改造は、この列島に住む人々の十八番なのです。

 

唐物茄子茶入からものなすちゃいれ 付藻つくも茄子

中国・南宋~元時代(13~14世紀)

東京静嘉堂文庫美術館蔵

 

 

【国宝】天橋立図

雪舟筆

室町時代(16世紀)

京都国立博物館蔵

 

 

  トピック 誤解 改造 MOTTAINAI

 

あこがれの舶来品を模倣するときは、いつも、ちいさな誤解が生じたり、自分の好みにあわせた改造がおこなわれたりしました。まだ見ぬ馬車を生き物のように理解してあらわしたり、絵と毛皮でしか知らない虎と豹を混同したり、舶来品の意匠にはなかった自分たちには大事なコンセプトを、苦労して装飾に加えたりしました。

 

変形神人車馬しんじんしゃば画像鏡がぞうきょう

出土地不明

古墳時代(4世紀)

神田喜一郎氏寄贈 京都国立博物館蔵

 

 

また、支配者の交代があったとき、前政権は打倒されるべきものであったとしても、彼らが持っていた宝物は破壊の対象にならず、ましてや舶来品はその貴重さゆえ、壊れていたら直してまで大切に伝え続けられたのも、ものを大切にする日本らしい美徳といえるのかもしれません。

 

【重文】神人車馬画像鏡

奈良県北葛城郡河合町佐味田宝塚古墳出土

中国・後漢~三国時代(2~3世紀)→ 佐味田宝塚古墳:古墳時代(4~5世紀)

東京国立博物館蔵

 

 

つづく