石崎光瑤③ | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

京都文化博物館で見た「石崎光瑤」展の続きです。以下の文章は文博のHP、展示パネル、キャプションから引用しました。

 

 

  第3章 深まる絵画表現

 

欧州旅行

 

大正11年(1922)12月から翌年8月にかけて、光瑤はイタリア、フランス、イギリス、オランダ、ドイツ、スペインなどの各国を巡る旅に出ました。さまざまな西洋絵画に接しましたが、特にフレスコ画に興味を示したといいます。

 

 

資料《石崎光瑤宛 吹田草牧葉書》1922年

 

光瑤は栖鳳門下の日本画家・廣田百豊ひゃくほうと渡欧しました。フランスでは、親交のあった洋画家の黒田重太郎じゅうたろう、日本画家の土田麦僊、吹田すいた草牧そうぼくに迎えられました。この葉書では、先に渡欧した草牧がヨーロッパの様子を伝えています。草牧も同じ栖鳳門下で、先輩の土田麦僊にも学びました。

 

 

写生帖《外遊写生 風景、ダイコン》

 

この写生帖には、大正12年(1923)6月10日に、光瑤がゴッホの主治医ガシェの家を訪ねた際、ガシェの家の鳥小屋をスケッチした図が残ります。ガシェの家ではゴッホやセザンヌの作品も見ていますが、光瑤の関心が鳥に向けられていることが分かります。

 

 

写生帖《外遊写生 ルーブル》

 

光瑤の写生帖は、京都市立芸術大学芸術資料館と南砺市立福光美術館に残されるものだけでも、あわせて200冊以上あります。その中で渡欧中の写生帖は10冊余り、渡欧した光瑤は古代エジプト美術にも関心を示し、ルーヴル美術館でもそのスケッチをしています。

 

 

写生帖《渡欧写生》

 

イギリスを訪れた時の写生帖。王立植物園キュー・ガーデンでの植物スケッチも残ります。光瑤はインド行の時と同様に、ヨーロッパを訪れた際も寺院・美術館・博物館だけではなく、植物園にも足を運んでいました。

 

 

若冲への憧れ

 

光瑤は日本・東洋の古画も広く研究し、伊藤若冲に最も関心を持ちました。明治45年(1912)の第17回新古美術品展で陳列された若冲の《動植綵絵どうしょくさいえ》を見て以来、光瑤は若冲に憧れます。

 

 

大正14年(1925)、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)の助教授になった光瑤は、教え子の話をきっかけに若冲の代表作《仙人掌群鶏図襖さぼてんぐんけいずふすま》を発見、世に紹介することになります。

 

 

写生帖《若冲 赤坂ノ松と雉 中国画》大正~昭和前期

 

 

 

写生帖《白孔雀》大正~昭和前期

 

 

写生帖《サセックス》大正~昭和時代前期

 

 

 

 

 

ヤマドリ雄と雌《春律》下絵 1928年

 

 

 

画風の変化

 

こうした東西の絵画研究を通じて、光瑤の作風は絢爛華麗な色彩美の世界から趣を変え、深みのある洗練された画風へと変化します。それは時に、モダンで幾何学的な作風を示しました。

 

麗日風鳥れいじつふうちょう》1924年

 

右幅には、オオホウカンボク(大宝冠木)やベンガルヤハズカズラの花咲く下に、白い飾り羽を広げた極楽鳥を描きます。

 

その鳥の見上げる先、左幅の上部には、羽を広げて舞い飛ぶもう1羽の極楽鳥が描かれます。背景には白いデンドロビウムの花や、インドボダイジュの樹葉が描かれ、右下は水面なのでしょう、スイレンの花が描かれます。

 

 

にわとり之図》1926年

 

伊東若冲による大阪・西福寺の《仙人掌群鶏図襖》を光瑤が模写したもの。一点一線に至るまでの緻密な描写や、生気に満ちた鶏の迫力など、原画の魅力をよく写し取っています。憧れの若冲の知られざる名品を発見し、間近に接する光瑤の気持ちの昂ぶりが感じられます。

 

 

春律しゅんりつ》1928年

 

第9回帝展出品作。雌雄のヤマドリを対角線上に置き、鋭角に土坡と岩を配します。きびきびとした構図はこの時期の光瑤のモダンな趣への挑戦を示します。

 

それを支えているのは、ヤマドリに身荒れる徹底した写実であり、中央に配された春蘭の可憐さでしょう。幾何学的な秩序に重きを置きつつ、生命の確かな居場所となっている点に、光瑤の絵の魅力があります。

 

 

 

 

瑞兆ずいちょう》1928年

 

白いキジとシダのみによる簡潔な構成に、静謐な趣をたたえます。右上に「昭和大礼の秋」とあり、京都御所で昭和天皇の即位の礼が行われた昭和3年秋の制作と分かります。

 

白いキジは吉祥の意味合いの強いモチーフ。羽の純白とそこに埋もれるような頭部の朱色の対比が、奉祝の思いを託すのにふさわしい清廉な鮮やかさを見せます。

 

 

寂光じゃっこう》1929年

 

第10回帝展出品作。月光を表すものでしょうか。砂子や切箔を散らした金を背景に、大木の枝にとまる7羽の孔雀を描きます。何をするでもなく集う孔雀や、色調の変化を抑えて平面的に描かれた樹木など、画面は静けさに満ち、幻想的でもあります。沈静した光に滲み入るような情緒を宿す点に、光瑤の新たな展開を見ることができます。

 

 

藤花とうか孔雀之図》1929年

 

羅馬日本美術展覧会出品作。雄の孔雀の豊かな尾羽が対角線上に大きく描かれ、赤茶の深い色合いや文様の反復が、強い印象を与えます。傍らに配された緑青・群青・金の色彩との対比も効果的。太い枝は、輪郭線をとらず、潤い豊かに表されます。濃密な色彩とボリュームが見どころの孔雀と、透明感のある平面的な描写の樹木とが、好対照をなしています。

 

 

《豊穣》1930年

 

羅馬日本美術展覧会出品作。白いキジを画面上半分に大きく捉え、下方は黄色の穂を垂らしたアワを描きます。尖った嘴から長く伸びた尾羽まで、キジのシャープな形態が、空間を切るように飛翔する様をよく表現します。色数を抑えた画面の中で頭部の赤が鮮烈。この白いキジも豊穣を象徴する吉祥的なモチーフとして描かれたものでしょう。

 

 

金剛峯寺奥殿

 

さらに金剛峯寺から襖絵揮毫の依頼を受けた光瑤は、取材のため昭和8年(1933)1月、2度目のインド旅行に旅立ちます。

 

 

金剛峯寺の寺号から金剛宝土(ダージリン)を主題とすることにした光瑤は、ヒマラヤの雪嶺、ヒマラヤシャクナゲを咲かせた古木に花鳥が遊ぶ穏やかな風景を描き出しました。

 

 

  第4章 静謐なる境地へ

 

1930年代後半になると、大画面にたっぷりとした余白をとり、その中に繊細な線描を駆使した花などを描いた作品が多くなります。

 

《霜月》1938年

 

《襲》1942年

 

 

晩年の大作《聚芳(1944)》に代表されるような、静謐な雰囲気を醸し出す独特な世界観が誕生しました。これは、光瑤の徹底した写実、そして早くから追求してきた装飾性との調和によって確立された独自の境地といえるでしょう。

 

 

師・竹内栖鳳が没して5年後、戦後まもない時期に光瑤も62歳で他界しました。死を予感していたのか、晩年の作品はなんだか寂しいですね。

 

 

ミュージアムショップでは《燦雨》をモチーフにしたクリアファイルを買いました。

 

 

絵が裏表に描かれていて、金敷の中敷がゴージャス。あるのとないのとでは高級感が違います。

 

 

それから《燦雨》をあしらった包装紙でラッピングされた鼓月の千寿せんべい。妥協して買ったお土産ですが、意外においしかったです。

 

 

帰りは錦市場に寄りました。若冲の生家があった事にちなみ、若冲の絵を写したバナーがかかっています。

 

 

錦市場は人が多すぎて前に進めず、途中で撤退。烏丸駅近くの大丸で土井の志ば漬を買い、この日の行程を終えました。

 

 

おわり