長沢芦雪展 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

11月17日(金)大阪中之島美術館。この美術館はいつ行っても混んでいますが…。

 

 

長沢芦雪展も大人気。撮影禁止+再入館禁止でした。

 

 

手持ち無沙汰で借りた音声ガイド。町田さんの声が心地よく、作品の鑑賞に集中できました。

 

 

それでは、展覧会の内容です。以下の文章は一部美術館のHPから引用しました。

 

  第1章 円山応挙に学ぶ

 

長沢芦雪(1754~1799)は、丹波国篠山藩の藩士で後に淀藩に出仕した武士の子として生まれました。 絵師になるため姓を「長沢」に変え、当時画壇をリードしていた円山応挙(1733~1795)に入門します。

 

 

10代半ばから「于緝(うしゅう)」という号で描き、応挙画風を踏襲した女性像や動物画など、自らの画風を模索。20代後半からは「芦雪」と署名する作品が多くなっていき、徐々に屏風など大画面の制作の依頼も受けるようになりました。

 

長沢芦雪《西王母図》1782年

 

長沢芦雪《牡丹孔雀図》18世紀

 

長沢芦雪《梅花双狗図》18世紀

 

 

  第2章 紀南での揮毫(きごう)

 

天明6年(1786)10月頃から翌年2月にかけて、芦雪は師の代理で紀南地方(現在の和歌山県南部)に赴き、 本州最南端の町・串本町にある無量寺をはじめとする寺院の襖絵を描きます。 温暖な気候も手伝ってか、それまでとは異なる大胆な筆遣いによって多くの作品を描きました。

 

 

紀南へ赴く直前に描いた《龍図襖》(島根・西光寺)や滞在中に制作した代表作《龍 ・ 虎図襖》(和歌山・無量寺)をはじめ、多くの大画面作品が完成したのもこの時期です。

 

長沢芦雪《龍図襖》(昇龍図)18世紀

島根 西光寺

 

長沢芦雪《龍図襖》1786年

和歌山 無量寺・串本応挙芦雪館

 

長沢芦雪《虎図襖》1786年

和歌山 無量寺・串本応挙芦雪館

 

長沢芦雪《蛸図》1786年

 

長沢芦雪《寒山拾得図》1787年

和歌山 高山寺

 

 

  第3章 より新しく、より自由に

 

紀南滞在後の芦雪は、大火で消失した御所の襖絵制作への参加などで活躍すると共に、奈良や広島へ赴き、現地で制作を行っています。

 

 

応挙の画風を継承しようとする弟子たちの中で、芦雪だけが師匠の画風の再解釈、変容によって、独自の画風の確立に努力を惜しみませんでした。

 

長沢芦雪《岩浪群鳥図襖》18世紀

 

長沢芦雪《富士越鶴図》1794年

 

長沢芦雪《降雪狗児図》18世紀

 

長沢芦雪《群猿図》1795年

 

 

大胆な構図、斬新なクローズアップ、どこかユーモラスで愛嬌のある動物や人物の描写など、人々を魅了し楽しませた芦雪40代。唯一無二の作品で後世に名を残しました。

 

長沢芦雪《幽魂の図》18世紀

目鼻立ちがはっきりしていて、下半身も少しだけ描いていて、人間っぽい感じがします。

 

 

長沢芦雪《ふき図》18世紀

画像では小さすぎて見づらいのですが…。黒い斑点状のものはありです。

 

 

長沢芦雪《方寸五百羅漢図》1798年

3㎝四方に500人の羅漢像。当時の画家たちから「芦雪は細かい絵が描けないだろう」と挑発され、描いた作品です。

 

 

長沢芦雪《牛図》18世

この展覧会のポスターに採用された作品です。展覧会の最後に登場。全身を描いていないとは意外でした。

 

 

  第4章 同時代の天才画家たち

 

芦雪が生きた18世紀の京都は、師の円山応挙以外にも数多くの個性的な画家たちを輩出しました。後年「奇想の画家」として脚光を浴びた伊藤若冲(1716~1800)と曽我蕭白(1730~81)は芦雪よりも一世代前に生まれた画家です。

 

 

芦雪は彼らの作品とシンクロするような作品や禅宗で好まれた画題を多く描いています。ここでは若冲と蕭白の作品を通して、18世紀京都画壇における画家たちの魅力に迫りました。

 

伊藤若冲《象と鯨図屏風》1797年



特設ショップには、阪神優勝を祝ったグッズも売っていましたが、ここは無難に、芦雪の作品《龍図襖と虎図襖(1786)》をあしらったクリアファイルを購入。

 

 

芦雪の絵ばかりで退屈しないかな?と思いましたが、杞憂でした。それも芦雪の探求心の賜物だと思います。そして、躍動感あふれる襖絵からは、強いパワーをもらえそうな気がしました。