今回は、福田美術館で見た「日本画革命」より「第1章 新しい日本画の境地」を振り返ります。以下の文章は、展示室のパネルから引用しました。
『近代の日本画には、江戸時代までとは全く異なる価値観による「革命」がありました。伝承を継承するだけではなく、誰も表現しなかったような個性を強く発揮したものこそが素晴らしい、とする価値観の革命が起きたのです。』
展示は、近代日本画の先駆けとなった日本美術院を創設し、新しい日本画の創造を推し進めた岡倉天心(1863~1913)のもと、展覧会の舞台に先陣を切った横山大観(1868~1958)や菱田春草(1874~1911)らの作品から始まりました。
横山大観《東山烟雨(1956)》
「烟雨」とは、けむるように降る霧雨のこと。京都市内から比叡山も含めた東山の方向を大きく捉えています。雨雲が光を遮り、色を失った世界は一見寂しげですが、雨の日だけに感じられる情趣をも描き取っています。
横山大観《皓月(1938)》
煌々と輝く満月が、秋の夜を明るく照らし出す情景。上流は柔らかな線で水の流れを描き、水に反射する皓い月の光を表現するのは、大観や春草が編み出した朦朧体。彼らは日本画の命である輪郭線を、あえて絵具や水を含ませない空刷毛でぼかす新たな工夫をしました。
横山大観《寒山拾得(1912)》
寒山と拾得は奇行で知られた中国・唐代の伝説上の僧であり、大観も好んだ画題でした。寒山が巻物に書いた詩を示し、拾得が手を広げて賛嘆を示す様子は、超常の2人の精神性を描こうとしたもの。大観もまた、日本画家の新派のリーダーとして、改革に伴う悩みを持っていました。
菱田春草《蓬莱山図(1902頃)》
春草は、不老不死の仙人が住むめでたい画題の蓬莱山に、長寿の象徴である松と鶴を描き加え、吉祥の雰囲気を強めました。色の濃淡によって山に奥行きを出すだけでなく、そびえ立つ山に対し、鶴を下方部に配置することによって、縦長の画面を活かした雄大な場面を描き上げています。
菱田春草《群鷺之図(1908)》
海岸に佇む鷺の群れを横長の構図で描いた作品。海岸というモチーフから、それに適した画面と構図を自由に創り上げたところに、春草の革命的思考がうかがえます。
横山大観と菱田春草《飛泉(1901頃)》
勢いよく水が流れ落ちる滝は大観が、水しぶきがかすかに上がる静かな滝壺は春草が描いた作品。滝壺の背景にはうっすらと大観が絵にした滝が見えます。同じ飛瀑を主題にしたものですが、それぞれの感性をもって表現しています。
次は、小林古径(1883~1953)など院展の再興に尽力した画家の作品、また、川合玉堂(1873~1957)、速水御舟(1894~1935)など、古径とは違う立場で日本画の可能性を模索した画家たちの作品を見ました。
小林古径《鴨(1933)》
真っ黒く均一に塗られた頭や、さまざまな形と色の羽毛の柄は装飾的とも言えますが、一方で、嘴や脚の部分は写実的に質感を再現。墨に銀泥を含ませた筆で描かれた輪郭線は品格すら漂わせています。
小林古径《撫子(1931)》
夜空に浮かぶ下弦の月が、スポットライトのように撫子を照らし出し、闇夜に白い花弁を浮かび上がらせています。小さな花の一輪一輪を、写実的に丁寧に描いた本作。要素を切り詰めて日本画に静謐な感覚の新境地をもたらした古径の個性が表れています。
松林桂月《松竹図屏風(1931)》
画だけでなく、詩の内容や書まで鑑賞する伝統的な南画を志向し、世の潮流に背を向け、自身の表現を追究した松林桂月(1876~1963)。右隻では、金箔の光を夏の陽光に、松は下から寝転んで見上げた様子に見立てて、左隻では、一転して制作の楽しみと高揚感を詠っています。桂月は自然のリズムを鋭く捉え、命の脈動のようなものを、筆のうねりや抑揚に取り込みました。
川合玉堂《三保・富士(1912~1989)》
右幅に描かれているのは静岡県の三保松原。本作では、金泥の雲を用いて、標高差のある対象を見事に表現しています。玉堂は、京都で円山・四条派を、東京で狩野派を学び、それぞれの長所を取り入れて新時代に合致した風景画を描き続けた画家。富士の姿を実在感を伴いながら表すその手腕に、国民画家と呼ばれて愛された実力が発揮されています。
川合玉堂《瀑布(1902頃)》
瀑布の水流を余白で表現し、後ろの岩肌は墨で描き出されています。ハイライト部分を描かずに白く見せるこのような表現は、丸山応挙(1733~1795)など江戸時代に活躍した画家も用いたもの。近代化に伴って革新的な作風が続々と登場する中、玉堂はむしろ古典的な性格の強い作品を残しました。
速水御舟《嫩芽(1929)》
ツツジやサザンカ、松、シダが生えた日本庭園。赤い芽をつけたツツジの枝に留まるのは、冬の渡り鳥でもあるジョウビタキです。芽吹きの季節を迎えて、間もなく飛び去って行く鳥の姿に託して、春の訪れを描いています。
速水御舟《芥子(1934)》
亡くなる1年前の作品。鮮やかな赤と深い紫へのグラデーションが目を引く花、薄い墨でかたどった上に緑青で葉脈をなぞった葉の表現によって、瑞々しくも妖艶な花の命を感じさせます。
山口蓬春《百合(1957)》
洋画家として8年間も活動した、異色の経歴を持つ日本画家、山口蓬春(1893~1971)。灰色を基調にした複雑な色彩の背景は、香りすら感じさせる洗練されたもので、蓬春モダニズムの一端がうかがえます。
池田遙邨《富峰(1955頃)》
飛行機の窓から眺めたような雲海と富士の高嶺を捉えた作品。山頂のわずかな残雪から暖かい季節だと分かります。全体に金砂子を蒔いて輝かせ、明け方の光に包まれる時間を表現しています。池田逢邨(1895~1988)は、写生旅行を好み、そこから着想を得て絵を描くスタイルを生涯貫きました。
東京の画家たちだけが日本画革命を成し遂げようとしたのではありません。伝統を尊んできた京都においても、山口華楊(1899~1984)などの画家が革命の旗手となりました。
徳岡神泉《池(1967)》
徳岡神泉(1896~1972)は、竹内栖鳳(1864~1942)の竹杖会で絵を学びました。この画派は写実性と装飾性を備えた画風に特色がありますが、神泉は例外です。作品に仏教的な思想を持たせ、動植物がまるで思惟するかのような画風を展開しました。
山口華楊《待春(1926~1989)》
兎は冬眠せず、地面に作った巣に食糧を溜めて冬を越します。雪が溶けて現れる兎や木の根、伸びゆく赤いシダの芽。それぞれが余寒に耐えながら、「春を待つ」姿を繊細に描き出した、生命力や物語性に満ちた作品です。
山口華楊《洋蘭(1965~1984)》
洋蘭の葉と花、それらがつなぐゆるやかなカーブを描く茎の配置の妙によって、生み出された構図と複雑な色調による表現は、それまでの伝統的な花鳥画とは全く異なるもの。華楊は京都で最も果敢に戦い、新たな世界を構築していきました。
今日はここまで。次に続きます。