大阪の日本画 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

今回は、大阪中之島美術館で見た「大阪の日本画」を振り返ります。

 

 

まずは概要。以下の文章は大阪中之島美術館のHPから引用しました。

 

大阪は商工業都市として発展を続けるとともに、東京や京都とは異なる文化圏を形成し、個性的で優れた芸術文化を育んできました。
江戸時代からの流れをくむ近代大阪の美術は、市民文化に支えられ、伝統にとらわれない自由闊達な表現が多彩かつ大きく花開いたといえます。
とりわけ大正から昭和前期にかけては画壇としての活動が隆盛を極め、北野きたの恒富つねとみしま成園せいえんすが楯彦たてひこ矢野やの橋村きょうそんなど、多くの画家が個性豊かな作品を生み出しました。

 

 

ナビゲーターは歌舞伎役者で舞踏家の片岡愛之助(1972~)。この日の入館は午後2時半を過ぎていたので、時間切れが心配でした。幸いガイドのテンポが良く、イライラせずにすみました。

 

 

  第1章 ひとを描くー北野恒富とその門下

 

大阪の「人物画」は、明治時代後半から昭和初期にかけて、北野恒富(1880~1947)とその弟子たちによって大きく花開きました。

 

 

当時「悪魔派」と揶揄された妖艶かつ頽廃的な雰囲気をもつ恒富の人物表現は、顔を綺麗に描いた美人画とは異なり、人の内面を画面全体で描出している点に特徴があります。

 

北野恒富《淀君》1920年頃

 

 

急激に移り行く近代社会の市井の感覚を敏感に感じ取り、描き方や人物の表情を制作時期によって変えている点も見どころです。

 

北野恒富《風》1917年

 

北野恒富《五月雨》1938年

 

 

また、恒富は画塾「白耀社」を主宰するなどし、樋口ひぐち富麻呂とみまろ(1891~1981)や中村なかむら貞以ていい(1900~1982)、女性画家のしま成園せいえん(1892~1970)や木谷きたに千種ちぐさ(1895~1947)など大阪を代表する画家をはじめ、多くの後進を指導しました。

 

 

彼らの活躍により多彩な人物画表現が大阪で生み出されることになります。

 

中村貞以《失題》1921年

 

 

  第2章 文化を描くー菅楯彦、生田花朝

 

古き良き大阪庶民の生活を温かく表現した「浪速風俗画」は、すが楯彦たてひこ(1878~1963)によって確立されました。

 

 

伝統的な風俗や風景を題材に絵を描き自賛を書き入れ、四条派と文人画を融合させたスタイルは、江戸時代より続く大阪人独特の洗練された感性に響くものとして広く愛されました。

 

菅楯彦《阪都四つ橋》1946年

 

 

菅楯彦《浪華三大橋緞帳》1957年頃

 

 

弟子の生田いくた花朝かちょう(1889~1978)は、楯彦の作風を受け継ぐ一方で、豊かな色彩感覚により同時代の風俗も積極的に描き、軽やかでユーモラスな作品を多く残しました。

 

生田花朝《天神祭》1935年頃

 

 

  第3章 新たなる山水を描くー矢野橋村と新南画

 

矢野やの橋村きょうそん(1890~1965)は、日本の風土に基づく日本南画をつくることを目標として、江戸時代より続く伝統的な文人画に近代的感覚を取り入れた革新的な「新南画」を積極的に推し進めました。

 

 

もともと文人画や中国文化に対する素養のあった大阪では、新南画は容易に受け入れられたこともあり、近代大阪画壇において重要な足跡を残しました。

 

矢野橋村《那智奉拝》1943年

 

 

  第4章 文人画ー街に息づく中国趣味

 

江戸時代、都への玄関口にあたる大阪には様々な文物が集まり、煎茶をはじめとする中国趣味が栄え文人画が流行しました。

 

 

大阪では、漢詩や漢文の教養を身に付けた市民が多かったこともあり、明治以降も文人画人気が続き、西日本を中心に各地から文人画家が集まり優れた作品が多く生まれました。

 

もり琴石きんせき《獨樂園図》1884年

 

 

  第5章 船場派ー商家の床の間を飾る画

 

大阪で広く市民に受け入れられたのが、四条派の流れをくむ絵画「船場派」です。船場派には2つの系譜がみられます。

 

 

幕末・明治期に活躍した西山にしやま芳園ほうえん(1804~1867)・西山にしやま完瑛かんえい(1834~1897)によって確立された西山派の系譜。

 

西山完瑛《涼船図》1861年

 

 

もう一つは明治期に深田ふかだ直城ちょくじょう(1861~1947)により普及した系譜。いずれも京都の四条派とは異なり、あっさりとスマートに描く大阪らしい作風で人気を博しました。

 

平井ひらい直水ちょくすい《梅花孔雀図》1904年

 

 

  第6章 新しい表現の探求と女性画家の飛躍

 

明治時代以降、新聞社や出版社が多く集積した大阪には、全国から多くの画家たちが集まりました。彼らは挿絵画家などとして勤務する一方で、展覧会に出品したり研究会に参加したりして活動しました。

 

中村貞以《猫》1948年

 

 

また、大阪では江戸時代より女性画家が活躍していたことに加え、富裕層を中心に子女に教養として絵画を習わせる傾向が強く、多くの優れた女性画家が登場しました。

 

島成園《祭りのよそおい》1913年

 

 

様々な経歴で集まった人々や女性画家の活躍により、大阪の日本画は新しい感性に基づく魅力的な表現が生まれました。

 

星加ほしか雪乃ゆきの《初夏》1940年

 

高橋たかはし成薇せいび《秋立つ》1927年

 

吉岡美枝《店頭の初夏》1939年

 

 

吉岡美枝《ホタル》1939年

 

 

展覧会の後はミュージアムショップへ。大阪の日本画家について詳しく知りたかったので、図録を買いました。

 

 

それから、島成園《祭りのよそおい(1913)》をあしらったクリアファイル。

 

裏面は橋本はしもと花乃はなの《七夕(1930~31)》です。

 

 

美人画でなく、女性の内面を描き出そうした大阪の日本画家たち。それゆえ、作品との間に目に見えない壁を感じる事なく、作品の中にスッと入り込めました。

 

 

かなり先ですが、今年の年末から2ヶ月間、女性画家にスポットを当てた展覧会を開催するそう。

 

 

その頃になったら、今日見た作品をまた見たくなるのでしょうね。