しばらく家の片付けでブログをお休みしました。まだ終わっていませんが、ネタが溜まっているので、少しずつ更新しようと思います。
さて、さかのぼって7月8日(金)。
安倍元総理の銃撃事件があった午前11時半、大阪中之島美術館でモディリアーニ展を見ていました。
真矢ミキさんの声に癒やされてモディリアーニの世界にどっぷり。そんな中、お隣の奈良で世間を震撼させる事件が起こっているとは、夢にも思いませんでした。
展覧会は期待以上でしたね。モディリアーニの作品だけでなく、エコール・ド・パリの画家たちの作品をいろいろ見れたのが良かったです。
それでは、展覧会の内容に入ります。以下の文章は、モディリアーニ展の公式サイトを参考にしました。
第1章 芸術家への道
1906年、イタリアの美術学校を卒業したアメデオ・モディリアーニ(1884-1920)は、さらなる研鑽を積むため、パリに渡ります。モンマルトルにアトリエを借りて芸術活動を開始。セザンヌなどの作品に影響を受け、キュビスムやフォーヴィスムなど新しい表現に触発されました。
さらに、当時流行だったアフリカ美術にも魅せられ、彫刻とカリアティード(古代建築に用いられた女性の姿を模した柱)の制作に没頭していきます。
しかし、創作活動が思うようにいかなかったのでしょう。もともと病弱だった上、日頃の不摂生がたたって健康状態が悪化。やがて経済的に困窮し、彫刻の道を断念しました。
次に、第1章の主要作品を見ていきましょう。
《青いブラウスの婦人像》1910年頃
パブロ・ピカソ(1881-1973)「青の時代」の影響を受けた作品。しかしこの作品が描かれた頃、ピカソは「バラ色の時代」を経て、キュビスムを模索していました。
《ポール・アレクサンドル博士》1909年
ポール・アレクサンドルは医学研修生で、初期のモディリアーニを援助した人物です。第1次世界大戦中、モディリアーニは病弱で兵役を免れましたが、アレクサンドルは召集され、生き別れました。
《カリティアード》1911~13年
カリティアードのスケッチ。顔と首が異様に長いプロポーションで、目には瞳を描き込まないなど特異な表現は、彫刻の影響が指摘されています。
《接吻》1907~10年
作者のコンスタンティン・ブランクーシ(1876-1957)はルーマニア出身で20世紀を代表する彫刻家。モディリアーニはブランクーシに傾倒し、彫刻家を目指すため、弟子入りしました。
第2章 1910年代パリの美術
モディリアーニは異国出身者の総称「エコール・ド・パリ」の仲間ですが、当時のパリは新しい美術が次々と生まれる刺激的な芸術都市でした。パリでのモディリアーニは、仲間と積極的に交流し、文学者とも親交を深めます。
第2章では、ピカソ、シャガール、スーティンなど、1910年代にパリで活躍した芸術家たちが続々登場。ここではパンフレットに載っていた作品をピックアップしました。
ローランサン《サーカスにて》1913年頃
作者のマリー・ローランサン(1883-1956)はフランスの女流画家。これは舞台袖を描いた作品でしょうか?
モディリアーニ《ピエロに扮した自画像》1915年
なんだか顔色が…。心の病でも患っていたのでしょうか?
ピカソ《ポスターのある風景》1912年
キュビスムを模索していた頃の作品です。
キスリング《ルネ・キスリング夫人の肖像》1920年
モデルは妻。お顔の表情が少し怪しげ。一体何を考えているのでしょう?
モディリアーニ《ルネ》1917年
うーん。この絵が完成した時のルネ・キスリング夫人の反応が見たかったです。
シャガール《町の上で、ヴィテブスク》1915年
作者のマルク・シャガール(1887-1985)は、ロシア出身ユダヤ系の画家。空飛ぶ人間。夢想的でシャガールらしい作品です。
特集 モディリアーニと日本
パリの共同アトリエ「シテ・ファルギエール」でモディリアーニと日本人画家との間に交流が生まれます。なかでも藤田嗣治(1886-1968)とは友情で結ばれていました。
藤田嗣治《自画像》1929年
自画像より額縁の絵が気になります。
モディリアーニ《フジタの肖像》1919年
寝る前、ベッドに座った所をデッサンしたような作品。眼鏡を外した藤田氏が斬新です。
藤田嗣治《二人の女》1918年
モデルは一体誰でしょう?
中原實《モジリアニの美しき家婦》1923年
色白でかわいらしい奥さん。おそらくモデルはジャンヌ・エビュテルヌ(1898-1920)。モディリアーニとは、14歳離れた年の差婚でした。
今日はここまで。第3章は次にします。