GIGA・MANGA⑦ | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

今回は、神戸ゆかりの美術館で見た「GIGA・MANGA―江戸戯画から近代漫画―」より、大正時代から戦時中までを振り返ります。

 

 

2-4 大正時代の漫画家と雑誌①

 

大正6年(1917)、ロシア革命が起きます。その後、世界中で社会主義が大きなブームとなり、日本でも社会主義思想が急激に広まりをみせ、「大正デモクラシー」の時代がやってきます。

 

 

漫画の世界でも、そうした流れを受けて「プロレタリア漫画」と呼ばれるジャンルが登場し、宮武骸骨(1867-1955)は、「赤(1919)」という漫画雑誌を創刊しています。

 

 

漫画が再び勢いを取り戻したこの時代に、その地位を確立し、文化としての漫画を完成の域へと高める役割を果たしたのが、あの岡本太郎の父、岡本一平(1886-1948)でした。

 

 

岡本一平は、明治19年(1886)北海道函館に生まれています。5歳の時、東京日本橋に引越し、東京美術学校で西洋画を学びました。画家として成功を目指すものの、その夢はかなわず、26歳の時、朝日新聞社に入社。社会面に絵と文章による社会諷刺漫画を描き始めます。

 

 

自ら「漫画漫文」と名づけたこのスタイルは、一躍人気を獲得。これ以後、漫画家は絵だけではなく、自ら文章も書くのが常識となっていきました。

 


さらに岡本は、「朝日新聞」に「人の一生」という連載漫画を執筆。唯野人成ただのひとなりという平凡な男のサクセス・ストーリーを絵と文章によって何年にもわたって描き続けたこのシリーズは「漫画小説」と呼ばれました。

 

 

岡本は当時娯楽の中心となりつつあった活動写真の大ファンだったことから、フィルムのコマを意識した連続漫画を描きました。「映画小説」とも言われたこのスタイルも、その後のコマ割り漫画に大きな影響を与えることになりました。

 


さらに岡本の功績として特筆すべきなのは、東京在住の漫画家たちに声をかけ、大正4年(1915)に東京漫画会を結成したことです。

 

 

この団体は後に「日本漫画会」と改名し、漫画家たちの親睦だけでなく、漫画祭や展覧会、講演会などを開催。「職業漫画家」という新しい職業を広く世間に認知させることになりました。

 

 

そして岡本は、仲間たちと日本初の漫画同人誌「トバエ」を発行。フランスやドイツの雑誌からの影響を取り入れた実験的な内容で、美術としての漫画のレベル向上を目指す画期的な試みでした。

 


数多くの作品を発表し続けた岡本は、それらの作品を「一平全集」としてまとめて発売。全15巻のセットが、なんと5万セットも売れたといいます。当然、彼はそのおかげで多額の印税を受け取ることになりました。

 

 

そうして得た収入を用いて、岡本は妻のかの子と息子の太郎、そして妻の恋人までも連れて、2年3ヶ月にわたる世界旅行。さらには太郎を芸術家にするため、パリに留学させることができたのです。

 

 

2-5 大正時代の漫画家と雑誌②
 

岡本一平の「人の一生(1927)」と並び、連載漫画の名作重要なのが、麻生豊(1898-1961)の「ノンキナトウサン(1923)」です。

 

 

同じ年、アサヒグラフに連載されていたアメリカの作家ジョージ・マクマナスの「親爺教育」の影響を受けたといわれるその漫画は、ダメな父さんの波乱万丈な人生を描いた味わい不快ギャグ漫画として大きな話題になりました。

 

 

トボけたキャラクターを主人公にその人生を描いた連載ギャグマンガの原点は、この「ノンキナトウサン」と言われています。

 

 

さらに大人のアイドルが「ノントウ」だったのに対し、子供たちのアイドルとして新たな子供向け漫画の世界を切り拓いたのが、「正チャンの冒険(1923)、横島勝一(画)&織田小星(文)」でした。

 

 

3-1 昭和初期の漫画雑誌とナンセンス漫画の流行


北沢楽天(1876-1955)によって創刊された「東京パック(1905)」は、昭和3年(1928)第四次「東京パック」として新たな時代に突入。

 

 

当時の時代背景を映し出すように、エロチック漫画とプロレタリア漫画が紙面の中心となり、再び人気を盛り返しました。しかし、戦争の始まりとともに出版事業は困難な状況となり、昭和16年(1941)には休刊になります。

 

 

3-2 昭和戦前の漫画本


大人向けの漫画が、時代の右傾化とともにどんどん厳しくなってゆく中、逆に戦争直前まで勢いがあったのは子供漫画の世界でした。

 


特に、昭和6年(1931)「少年倶楽部」での連載が始まった田川水泡(1899-1989)の「のらくろ」は、子供漫画の代表作として、11年間にわたって連載が続きました。

 

 

昭和5年(1930)に出版された「長靴の三銃士、牧野大誓(画)&井元水明(文)」や、昭和9年(1934)から「幼年倶楽部」で連載が始まった阿本牙城による「タンクタンクロー」は、コメディー・タッチとはいえ、史上初の戦場用サイボーグ漫画でした。

 


また、「のらくろ」の人気を受けた動物漫画としては、昭和10年(1935)から7年にわたって「幼年倶楽部」に連載された「コグマのコロスケ」もありました。

 

 

その他にも、時代を反映した子供漫画「冒険ダン吉(1933-39、島田啓三)」や「日の丸旗之助(1935-41、中島菊夫)」などもブームも起こしました。しかしそうした人気漫画も、戦争の始まりにより連載中止を余儀なくされることになります。

 

 

総評

 

江戸戯画から近代漫画への移行がよく分かる展示でした。そして、展示を戦時中で終わらせる事により、「サザエさん」など私たちにおなじみの漫画が、全て戦後の作品だった事に気づかされたのです。



おわり