GIGA・MANGA⑥ | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

今回は、神戸ゆかりの美術館で見た「GIGA・MANGA―江戸戯画から近代漫画―」より、明治時代を振り返ります。

 

 

2-1 最後の戯画錦絵の時代

 

江戸時代に大流行した「鳥羽絵」本や『北斎漫画』は、明治時代になってもなお増刷され、庶民に親しまれていました。木版多色刷の戯画や諷刺画も同じく版行され続けましたが、徐々にコスト高となり、石版画や銅版画など新しい印刷技術に押され、やがて衰退していきます。浮世絵師たちの活躍の場は、新聞や雑誌へ移行していきました。

 

 

昇斎一景しょうさいいっけい(生没年不詳)筆

娘教訓二面鏡むすめきょうくんにめんかがみ四(1873)」

娘に対する教訓として上下で悪と善を描いた、12枚24図のシリーズ作品。上は、仲間と札遊びにふける悪い娘の図。家の者が帰るよう促しても応じない。下は、家で仕事をする良い娘の図。

 

 

昇斎一景(生没年不詳)筆

「東京名所三十六戯撰 根岸の里(1873)」

 

 

昇斎一景(生没年不詳)筆

「東京名所三十六戯撰 芝増上寺ぞうじょうじ(1872)」

明治3年(1870)1月、東京横浜間で通信線を使った電報を一般市民が利用できるようになった。図は、電信柱に逃げた猿まわしの猿と、それを見上げる人々。文明開化と江戸時代の文化とが渾然とした当時の様子を偲ばせる。後方に増上寺が見える。

 

 

河鍋暁斎かわなべきょうさい(1831-1889)筆

「暁斎楽画 第三号 化々ばけばけ学校(1874)」

明治5年(1872)、学制が施行され、西洋式の学校教育が始まった。図は、地獄や妖怪の世界が文明開化運動に遅れまいと、合同で「化々学校」を開設している様子。教師たちは洋服を着て鬼たちを教育している。閻魔大王の姿も見える。明治の急速な時代の変化を諷刺している。

 

 

小林清観きよちか(1847-1915)筆

「清観ポンチ 東京芳町よしちょう(1881)」

 

 

歌川芳藤うたがわよしふじ(1828-1887)筆

「しん板しんぶんづくし(1876)」

 

 

歌川芳虎(生没年不詳)筆

流行鳥獣興廃競りゅうこうちょうじゅうこうはいくらべ(年代不詳)」

明治維新後、日本では外国から多くのものが輸入されたが、その影響で、食用にもなる兔の飼育が流行した。当時の飼育ブームの主役であった兔と鶏などが力を競い合っている図。鴨(右下)、犬(上中)、豚(左下)などは劣勢のようだ。

 

 

作者不詳

好男別品よきおとこべっぴん黒貝開門こくかいかいもんをねがふ図(1881)」

明治14年(1881)の国会開設や憲法制定をめぐる政府内部の対立を、娘の貞操にたとえている。男たち(国会開設をのぞむ急進派)がもっと早く開門せよと要求。娘(政府)は、23歳(1890[明治23]年)にならなければ開門しないと言っている。

 

 

大森清風(生没年不詳)筆

「善悪蛙珍聞ちんぶん(1889)」

 

 

小林清観(1847-1915)筆

さけ機嫌十二相之内独言を云ふ酒癖(1885)」

 

 

月岡芳年つきおかよしとし(1839-1892)筆

「東京開化狂画名所 東両国回向院相撲狂人/柳原生臭坊主の臆病(1881)」

 

 

月岡芳年(1839-1892)筆

「芳年略画 桃太郎鬼ヶ島行/丹前姿(1882)」

上の図はかわいらしい桃太郎とその仲間たち。一列に並ぶ姿は、歌舞伎の舞台上のような雰囲気である。下の図は歌舞伎舞踊の丹前物たんぜんもの(江戸初期の若者の派手好みを丹前風といい、それを元にした舞踊)をモチーフに描いたもの。

 

 

月岡芳年(1839-1892)筆

「芳年略画 応挙之幽霊/雪舟活画(1882)」

 

 

歌川芳虎うたがわよしとら(生没年不詳)筆

「士族の商法(1877)」

明治9年(1876)、政府はすべての華士族に対して金禄の5年から14年分を公債で支給する秩禄処分を行った。多くの士族は利子収入を得るようになるが、西南戦争によるインフレのため公債は下落し、事業を始めた者の多くが失敗に終わる。不慣れな商売に失敗した者は「士族の商法」だと揶揄された。

 

 

歌川国輝うたがわくにてる(生没年不詳)筆

「東京浅草公画凌雲閣りょううんかく之図(1891)」

 

 

ここから先、撮影禁止でしたチーン

 

2-2 西欧からの影響と雑誌ブーム

 

日本初の漫画雑誌は、文久2年(1862)に横浜の外国人居留地で創刊された「ジャパン・パンチ」です。イギリス人のチャールズ・ワーグマン(1832-1891)によるこの雑誌は、日本人の風俗や時代の流れを風刺する内容で、明治20年(1887)まで続き、文明開化の日本に大きな影響を与えました。そのため、日本では諷刺画のことを「パンチ」と呼ぶようになり、後の「平凡パンチ」などのもとになります。

 

 

ちなみに「パンチ(Punch)」とは、イギリスの有名な諷刺雑誌のタイトルです。もともとは「パンチネロ (Punchnello)」という17世紀イタリアの人形劇の主人公の名前でした。そのずんぐりむっくり体型の道化師パンチネロの名前が略されて、「パンチ」もしくは「ポンチ」という言葉が生まれたのです。

 

 

そして「ジャパン・パンチ」の影響を受けながら社会諷刺週刊誌として明治10年(1877)に創刊されたのが、「團團珍聞まるまるちんぶん」です。武家出身で英国留学の経験があった野村文夫(1836-1891)という人物が自由民権運動の盛り上がりを背景に作ったこの雑誌は、全国各地で売られて人気を獲得。その影響を受けて様々な諷刺雑誌が誕生することになります。

 

 

次に日本の漫画に大きな影響を与えたのは、フランス人の画家ジョルジュ・ビゴー(1860-1927)です。もともとヨーロッパで一大ブームとなっていたジャポニズム・アートに憧れて日本にやってきた彼は、日本で画学を教えながら、明治20年(1887)に諷刺雑誌「トバエ」を創刊します。

 

 

彼は17年間日本で出版活動を続け、日本の軍国化に警鐘を鳴らし続けますが、警察からの弾圧を受けるようになり日本を離れざるをえなくなりました。しかし、こうした彼の姿勢はその後、日本人にも受け継がれていくことになります。

 

 

宮武骸骨(1867-1955)は、骨太なジャーナリズム的諷刺漫画の世界を日本で発展させた人物です。「ジャパン・パンチ」が終刊となった明治20年(1887)に「頓知協会雑誌」を創刊。ところが、その痛烈な政治批判は明治政府に目をつけられることとなり、明治憲法の発布式のパロディー描写が不敬罪にあたると訴えられ、罰金と禁固刑を言い渡されます。

 

 

しかし、刑期を終えた彼は、すぐに出版活動を再開。新たに刊行した雑誌で自身の牢獄での生活をネタにするなど、まったく悪びれることはありませんでした。

 

 

明治34年(1901)に彼が大阪で創刊した「滑稽新聞」は、様々なアイデアと過激な思想を盛り込んだもの。その後も治安当局に摘発されますが、私財を投げ売り、出版し続けました。

 

 

2-3 ポンチ本ブームから漫画本へ

前述の「團團珍聞」に政治諷刺漫画を描いていた田口米作(1864-1903)は、明治29年(1896)三号にわたり、6コマ漫画「江ノ島鎌倉長短旅行」を発表。デコボコ・コンビ「長」と「短」の珍道中を描いたこの三連作漫画は、漫画史における初の連載コマ漫画と言われています。

 

 

明治28(1895)に日清戦争が始まると、それを題材にした浮世絵師たちによる戯画錦絵が次々に発表され、ポンチ絵ブームが起きました。そこへ宮武骸骨の「滑稽新聞」が登場すると、その人気に便乗して東京でも対抗する漫画雑誌「東京パック」が創刊されます。

 

 

東京の漫画界を代表する存在となった北沢楽天(1876-1955)のこの雑誌と宮武の「滑稽新聞」は、ともに好調時には全国で8~10万部を発行していたと言います。こうした時代の流れに乗って、大阪では「大阪パック」が、さらに明治40年(1907)には、初の少年向け漫画雑誌「少年パック」も創刊されました。

 

 

しかし、明治43年(1910)の「大逆事件」によって、政府批判が困難な時代が訪れ、多くの雑誌が反政府的とされ、廃刊に追い込まれていきます。

 

 

つづく