チラシの藤の絵に惹かれて。
神戸ファッション美術館で開催中の「吉村芳生-超絶技巧を超えて-」を見に行きました。色鉛筆で描いたとは思えないリアルな絵。これを描いた吉村芳生って、一体何者でしょう?
第1章 ありふれた風景
吉村芳生は昭和25年(1950)山口県防府市に生まれ、山口芸術短期大学卒業後、広告代理店のデザイナーとして5年働いた後、創形美術学校で版画を学び、版画とドローイングの作家としてデビューしました。
新聞紙、金網、風景、身のまわりの物など、日常のありふれた情景をモチーフにして、明暗をオリジナルの手法で描いたモノクロームの作品で、国内外の多くの美術展にて入選を重ねます。
初期の代表作は、昭和52年(1977)制作の「金網」。ケント紙と金網をプレス機にかけて紙に残った痕を描きあげるという手法で、全長17mの大作。1日5時間の作業を70日間かけて描き上げたとか。
なぜこんなに面倒な作業をするのか?吉村氏はその理由を「機械文明が人間から奪ってしまった感覚を再び自らの手に取り戻すため」と述べています。
そして、昭和58年(1983)制作の「ジーンズ」。撮影したジーンズを拡大し、マス目を引いて濃淡別に0~9まで分け、「2なら斜線3本」というルールに則って、ひたすらマス目を埋めていったとの事。
それにしても、この方法は賛否両論ありそう。絵のセンスが無い人からすれば目から鱗だし、絵の専門家に言わせると邪道かもしれません。
昭和60年(1985)、山口県徳地町に移住。豊かな自然に囲まれた環境の中で制作活動を続け、次第に作品のスケールが大きくなっていきます。
第2章 自画像の森
画家になったものの、自分の求めるものがつかめずに、ひたすら自画像を描き続けていたという吉村氏。昭和56年(1981)年7月24日、31歳の誕生日から365日間毎日自画像を描きます。
自分自身を諦めが悪く、しつこくこだわってしまう性格と分析。逆にそのような性格だからこそ、365日間自画像を描き続けられたのでしょう。
昭和61年(1986)インド・ニューデリーに滞在。その時吉村氏の中で何かが変わり、モノクロからカラーへと移行していきます。
平成19年(2007)頃からは、新聞の内容をそのまま写し取り、その上に自画像を描くようになりました。
平成21年(2009)には、1月2日の休刊日以外の全ての日にちの新聞紙に自画像を描きました。
平成23年(2011)3月11日の東日本大震災は、吉村氏に大きな影響を及ぼしました。この災害をきっかけに、人の命を意識し始めたのです。
第3章 百花繚乱
平成12年(2000)以降、吉村氏は風景や物体をリアルに描き出すことに飽き足らず、作品に意味をもたせるようになります。
平成19年(2007)頃から作品が大型化し、「コスモス徳地に住んで見えてくるもの(色鉛筆で描く・・・)」など、タイトルが意味を帯びてきました。
ちょうどその頃、森美術館で開催された「六本木クロッシング:未来への脈動」展への出品作が注目を集め、57歳の吉村氏は遅咲きの画家として現代アートの世界で広く知られるようになりました。
平成22年(2010)制作の「未知なる世界からの視点」は、山口市を流れる仁保川の岸辺を約10mに描き、天地を逆さにして発表。地上に咲く菜の花を下へ、反射した像がゆらめく水面を上にもってくるという非現実的な世界を描いたのです。
平成25年(2013)に発表した「無数の輝く生命に捧ぐ」は、幅約7mに藤の花が広がる大作。藤の花一つ一つを東日本大震災で亡くなった人の魂としてとらえ、描き出しました。
この作品のもとになった写真は、金網や背景が写り込んだ普通の写真でした。藤の花だけをクローズアップすることで、より花の美しさを際立たせています。
そして遺作のコスモス。幅10mを超える大作を構想していましたが、空白の部分を残したまま、平成25年(2013)63歳でこの世を去りました。
こだわりが強いという短所を、超絶技巧を超えた芸術に昇華させた吉村芳生。私が一目惚れした藤の花が、東日本大震災で亡くなった人の魂だったとは、この展覧会に行かなければ知らないままでした。
中年期以降、母校の非常勤講師以外に定職を持たなかったため、絵を売るためにデパートのギャラリーで個展を開く事が多く、その活動は中国地方と東京にとどまっていたよう。
それ故全国的に知名度が低く、没後の巡回展でその名が知れ渡るようになりました。神戸での会期は6月20日(日)までです。