先日の続き。今回は藤原定家(1162-1241)と源氏物語について。以下の文章は、嵯峨嵐山文華館の展示物から引用しています。
百人一首の撰者である藤原定家には『源氏物語』の研究家という一面もありました。源氏物語には紫式部(973?-1031)が記した原文が残されておらず、定家は当時出回っていた写本を比較し、校訂したことで知られています。
令和元年(2019)には、定家の自筆による書き込みが含まれた「若紫(第5帖)」の写本が約80年ぶりに発見され、大きな話題となりました。こうして古人の努力もあり、『源氏物語』は世界最古の女流文学作品として、1000年もの間読み継がれてきたのです。
『源氏物語』は、紫式部が当時太政大臣だった藤原道長の娘・中宮彰子(988-1074)に仕えていた頃執筆した作品。約70年に渡り、光源氏と彼をめぐる人たちの生涯を描いた大河小説で、総勢500人以上もの人物が登場します。
源氏物語の絵画化がいつから行なわれたか正確には分かりませんが、源師時の日記である『長秋記』元永2年(1119)11月27日の条に、白河院と中宮彰子との間で「源氏絵」を製作していたらしいという記述が、現存する記録の中では最も古いとされています。
これは『源氏物語』が成立したと見られる年代からおよそ100年後の事になります。嵯峨嵐山文華館では、室町以降の源氏絵を見ました。
狩野山楽(1559-1635)筆「源氏物語図押絵貼屏風」。以下、六曲一双の屏風を二曲ずつアップしました。
右「桐壺(第1帖)」
桐壺帝と桐壺の更衣の間に光源氏が誕生。来日した高麗の相人が源氏を見て、帝王たるべき相ではあるが、帝位につけば国が乱れると判じた場面です。
左「帚木(第2帖)」
五月雨の頃、宮中の物忌みのため宿直所に籠る光源氏を頭中将、左馬頭、藤式撫丞が訪れ、女性の品定め談義をして夜を明かしています。
右「若紫(第5帖)」
病を患った源氏は、病気平癒を祈祷してもらうため北山に赴いていました。その夕暮れ、雀を追って縁先に姿を見せた少女・紫の上を垣間見た源氏は、禁断の恋の相手・藤壺と生き写しの姿に目を奪われます。
左「紅葉賀(第7帖)」
光源氏と頭中将が「青海波」という雅楽の舞を舞っています。彼らは波と千鳥の模様のある袍を着け、頭には鳥甲を被り、腰に剣を差した姿をしています。
右「花宴(第8帖)」
2月、宮中の南殿で桜の宴が催されました。その夜更けに、源氏は弘幑殿」で朧月夜と出会います。一夜を明かした二人は互いに名を明かさぬまま、扇を交換して別れました。
左「葵(第9帖)」
4月の賀茂祭当日、源氏の愛人である六条御息所と、源氏の最初の正妻である葵の上の一行が遭遇し、激しい場所争いを繰り広げました。
右「賢木(第10帖)」
源氏は嵯峨の野宮に伊勢下向を控えた六条御息所を訪ねます。ここでは、源氏が榊の枝を御簾の中に差し入れ、六条御息所と歌を交わす場面が描かれています。
左「花散里(第11帖)」
花散里のもとを訪れようとしていた源氏は、その道中に一度逢ったことのある花散里の姉・麗景殿女御の屋敷の側を通ります。懐かしく思い、屋敷から聞こえる琴の音に耳を傾ける光景です。
右「須磨(第12帖)」
朱雀帝の寵愛を受ける朧月夜との情事が明るみに出た源氏は、官位を剥奪され、須磨へと下向します。都から遠く離れ孤独の内に暮らす源氏は、静かな秋の夜に琴を弾きながら謡いました。
左「明石(第13帖)」
ある夜、源氏は夢の中で父・桐壺帝から須磨を去るように告げられました。翌日、明石入道の船が須磨へ着き、源氏の一行は盛大なもてなしを受けます。そして娘の明石の君を紹介されました。
右「澪標(第14帖)」
源氏が住吉大社に詣でた際、明石の君と再会し、歌を贈った場面です。明石の君の父・明石入道は、娘に良い縁談が来るよう住吉の神に祈り続けました。結果、源氏との縁談につながったため、物語では重要な場面の一つです。
左「絵合(第17帖)」
冷泉帝(源氏と藤壺の子)の後宮候補である。源氏擁する六条御息所の娘・梅壺と、頭中将の推す娘・弘幑殿女御が絵合わせで競う場面。最後に頭中将は豪華な絵画を、対して源氏は須磨に下向中、自分が描いた絵日記を出し、源氏側が勝利しました。
次は源氏物語に関連する絵。
藤原光貞(1738-1806)筆「三人の歌人」
伊勢物語を題材にした作品で、右幅に在原業平(825-880)、中幅に大納言経信(1016-1097)、左幅に伊勢大輔(989?-1060?)の姿が描かれています。いずれも百人一首にも選定されている歌人です。
玉圓永信(生没年不詳)筆「源氏五十四帖図」
源氏物語の最初の帖「桐壺」から最後の帖「夢浮橋」までの計54帖を、登場人物を描かず主要な背景や持ち物で作品や各場面を連想させる「留守模様」によって表現しています。江戸狩野の一族、下谷御徒士町狩野家6代目の玉圓永信による希少な作品です。
北野恒富(1880-1947)筆「紫式部図」
左の袖で半額を隠し、伏し目がちな表情が美しい紫式部の肖像です。関西の画壇で美人画の重鎮と称された恒富の手によって、才女の趣までも表現されています。額に描かれた長円形の眉は平安時代の化粧の典型例であり、自身の感情を隠しつつ、高貴な印象を与えるため好まれました。
狩野興也(生年不詳-1673)筆「源氏物語六条院庭園図巻」
35歳で太政大臣にまで昇りつめた光源氏は、平安京の六条京極(現在の河原町五条)あたりに「六条院」を建て、ゆかりのある女性たちを集めて住まわせます。六条院は春の町、夏の町、秋の町、冬の町によって構成されており、それぞれの季節に合わせた邸宅と庭が造営されました。
春の町
夏の町
秋の町
冬の町
最後に、円山応挙(1733-1795)筆「源氏物語図屏風(六曲一双)」
右隻「澪標(第14帖)」
源氏が住吉大社に詣でた際、明石の君と再会し、歌を贈った場面です。
左隻「胡蝶(第24帖)」
光源氏や紫の上が住む「春の町」で行われた龍頭鷁首の船遊びが描かれています。
百人一首や源氏物語をテーマにした展覧会は多数ありますが、この美術館の解説が一番分かりやすく、目から鱗でした。今回の展示に限らず、京都で日本画を見るなら、福田美術館と嵯峨嵐山文華館はお勧めです。
おわり