至高の小磯良平 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

広島市内にある(株)大野石油店のギャラリーコレクション、関西初公開!というキャッチフレーズに釣られ、小磯記念美術館へ。至福の小磯良平コレクション92点を見ました。

 

 

会長の大野輝夫氏は小磯良平(1903-1988)のファンで、長年小磯作品を収集し続けたとの事。コレクションの数は素描や版画も含め、359点にのぼると言われています。

 

 

展示は戦時中の小磯作品から始まりました。「読書(1939)」は日常の一場面を描いた作品。ピンクのワンピースは初々しさの象徴。小磯作品に度々登場するアイテムの一つです。

 

 

戦時中の小磯氏は従軍画家として中国に渡り、主に戦争画を制作していたとの事。清楚な女性の絵は、小磯氏にとって癒しだったと言えましょう。

 

 

戦後は欧米で抽象画が流行り、小磯氏も挑戦したそうですが、古典の域を抜けられず、曖昧な部分を作るだけにとどまったよう。大野会長お気に入りの「化粧をする舞妓(1958)」もこの頃の作品で、全部をはっきり描かない曖昧さがあります。

 

 

モデルは舞妓の久富美さんで、先斗町のお茶屋を借りて制作したとの事。コンパクトを見入るポーズは画家の注文。小磯氏はシャイな性格だったらしく、モデルに絵を描いている様子を見られるのを嫌がったとか。

 

 

戦後の小磯氏は、東京藝大の教授を務めるなど後進の指導にあたり、退官後は迎賓館赤坂離宮大広間の壁画を制作するなど、長きに渡り日本の洋画界に大きく貢献しました。

 

 

絵画「迎賓館赤坂離宮のためのエスキース(1973-74)」は、音楽「迎賓館赤坂離宮のためのエスキース(1973-74)」と共に、赤坂離宮朝日の間に飾られています。

 

 

どちらも藝大の学生を描いた作品ですが、実際モデルになったのは数人程度。同一人物をアングルを変えて描き、別人に見せて増やしていくのは小磯氏がよく用いた手法。リュートも頻繁に出てくるアイテムで、アトリエにある楽器を描いたそう。

 

 

小磯氏は外に出かけて風景を描くより、アトリエに籠って描く事を好んだため、画題になる物が少なく、同じモチーフを繰り返し使うようになったのではと評されています。

 

 

晩年の絵は細部まで鮮明に描き込んだためか、こうして作品が並ぶと、なんだかクローン人間を見ているようで不気味。

 

 

画業のピークは「化粧をする舞妓(1958)」を描いた時期かな。展覧会は全て小磯作品でしたが、美しい作品群を目の当たりにし、まさに至高の時間を過ごしました。

 

 

今日はここまで。六甲アイランド美術館巡りはまだまだ続きます。