恵心院と興聖院 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

先日の続き。

 

 恵心院の始まりは、弘仁12年(821)に真言宗の開祖・弘法大師によって開かれた古刹、龍泉寺と伝えられています。

 

 

 平安時代中期の寛弘年間(1004-11)に、往生要集の編者として名高い、恵心僧都源信によって再興され、「恵心院」と称されるようになりました。

 

 

 源信(942-1017)は、宇治川に入水した源氏物語宇治十帖のヒロイン浮舟を助け、新たな道を歩ませることとなった横川の僧都のモデルとも言われています。

 

 

 豊臣・徳川時代には、諸伽藍の整備が行われたと伝わりますが、現在は本堂、表門を残すのみ。本尊は平安時代後期の木造十一面観音立像で、宇治市の文化財に指定されています。

 

 

 恵心院から歩いて10分。興聖寺に到着。

 

 

 脇に流れるせせらぎが琴の音色に聞こえることから、「琴坂」と呼ばれている参道。

 

 

 浦島太郎伝説にも登場する竜宮門。

 

 

 そして薬医門。門前には樹齢300年と推定される姫小松が植えられています。

 

 

 本尊の釈迦牟尼佛は法堂に祀られていますが、法要中で近寄れませんでした。

 

 

 寺伝によると、曹洞宗の開祖道元禅師(1200-53)が、元福元年(1233)、京都深草に七堂伽藍を建立し、観音導利院興聖宝林寺を開創したのが、興聖寺の始まり。

 

 

 僧堂北側には、正面に大黒天、右面に毘沙門天、左面に弁才天の三つの顔をもつ三面大黒天が祀られていました。

 

 

 現在の興聖寺は、正保2年(1645)、淀城主の永井尚政(1587-1668)が、万安英種(ばんなんえいじゅ、1591-1654)禅師を中興開山に請じ、再興したもの。

 

 

 開山堂前にある金明竹は、明暦4年(1658)に明正天皇(1624-96)より、永井尚政を通じて興正寺に植えられたものと伝えられています。

 

 

 衆堂前には集合時刻を知らせる木魚。1泊2日の宿泊座禅もやっているとのこと。

 

 

 内庭には、明治41年(1908)に行われた宇治公園塔の島十三重塔修理の際、使用されなかった旧相輪と九重目の笠石が置かれています。

 

 

 宇治十二景「興聖の晩鐘」として有名な鐘楼。釣鐘には、林羅山(1583-1657)自選自書の銘があるとか。

 

 

 火伏の信仰(神仏が霊力で火災を防ぐこと)から生まれた鎮守社。秋葉三尺坊大権現を祀っています。

 

 

 内庭を見納め、興聖寺を出ました。

 

 

 宇治川のほとりを歩きました。

 

 

 対岸は塔の島。鎌倉時代に宇治橋架け替えの際、供養塔として建立され、明治41年(1908)に再建されたという十三重の塔が見えます。

 

 

 対岸へ渡るため、朝霧橋を目指して歩きました。