カラヴァッジョ展① | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 あべのハルカス美術館で開催中のカラヴァッジョ展に行きました。ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571-1610)は、バロック期のイタリア人画家です。展覧会はカラヴァッジョの生い立ちから始まりました。

 

 

 カラヴァッジョは1571年、装飾デザイナーの父と地主階級出身の母のもと、イタリア・ミラノで三人兄弟の長男として生まれました。本名はミケランジェロ・メリージ。カラヴァッジョは幼少期に住んだ村の名前です。

 

 

 幼くして両親を亡くし、13~17歳までミラノのフレスコ画家、シモーネ・ペテルツァーノ(1535-99)のもとで修行しました。確定していませんが、右の素描画はカラヴァッジョがその頃描いたものではないかと言われています。

 

 

 青春時代、レオナルド・ダ・ヴィンチなどルネサンス期の芸術や、ロンバルディア地方(カラヴァッジョ村を含む地方)の絵画などに触れ、ドイツ自然主義に傾倒していきました。

 

 

 カラヴァッジョは短気で喧嘩っ早く、ローマの警察記録には10回以上もその名が残されています。最初に傷害事件を起こしたのは21歳の頃。役人を負傷させ、ほぼ無一文の状態でローマへ逃亡しました。

 

 

 ローマで待っていたのは極貧の暮らし。しかしそのような状態も数ヶ月で、ローマではダルピーノ工房で助手を務め、「果物の籠を持つ少年(1593-94)」や「病めるバッカス(1593)」などで画家としての技量を認められるようになりました。

 

 

 独立後、画家のプロスペロ・オルシ、建築家のオノーリオ・ロンギ、弟分のマリオ・ミンニーティと知り合っています。既に有名だったオルシはカラヴァッジョにコレクターを斡旋し、ロンギは悪友で裏の世界を教えました。ミンニーティは美少年で、「女占い師(1594)」や「トランプ詐欺師(1594)」など、カラヴァッジョの作品のモデルを務めています。

 

 

 24歳の頃、ローマ・カトリック教会のデル・モンテ卿に認められ、貴族たちから室内装飾用の絵画の依頼を多数受けるようになりました。「リュートを弾く若者(1596)」や「バッカス(1595)」、「トカゲに噛まれた少年(1593-94)」は宮廷を出入りしていた頃の作品です。

 

 

 また、この頃から宗教画も描くようになりました。最初期の代表作は「懺悔するマグダラのマリア(1594-95)」。それまでの娼婦としての生活を悔やみ、救済を求めている姿を描いた写実的な絵です。

 

 

 他、この分野の初期の代表作に、「ホロフェルネスの首を斬るユディト(1598-99)」「イサクの犠牲(1598)」「法悦の聖フランチェスコ(1595)」があります。

 

 

 カラヴァッジョは28歳の時、コンタレッリ礼拝堂の室内装飾に携わりました。この時に描かれたのが「聖マタイの召命」に「聖マタイの殉教」。1600年に完成したこれらの作品により、一躍スター画家への道に駆け上ったのです。

 

 

 その後、有力者たちから大量の絵画制作の依頼が舞い込むようになりました。特に暴力的な表現を伴う宗教画の依頼が多く、グロテスクな断首、拷問、死などが主題となっていました。この頃の傑作に、イタリア貴族マッティ家からの依頼で描かれた「キリストの捕縛(1601)」があります。

 

 

 次々と描き上げる絵画によってカラヴァッジョの名声は高まる一方でしたが、ときには依頼主に受け取りを拒否されることもあり、描き直すかあるいは別の購入者を探すことになった作品もありました。

 

 

 しかし35歳の時、テニス賭博がきっかけで友人を殺害してしまいます。それまでのカラヴァッジョの放埒な言動は、有力なパトロンによって大目に見られていましたが、この時はパトロンたちもカラヴァッジョを庇護することはありませんでした。

 

 

 殺人犯として指名手配を受けたカラヴァッジョはローマを逃げ出し、ローマの司法権が及ばないナポリで、幼い頃から世話になっていた有力貴族、コロンナ家の庇護を受けました。カラヴァッジョとコロンナ家の関係は、「ロザリオの聖母(1607)」など、主要な教会からの絵画制作依頼に大きく寄与しています。

 

 

 ナポリでも成功を収めたカラヴァッジョでしたが、数ヶ月後にはマルタへと移ります。マルタの騎士団長ド・ウィニャクールは、カラヴァッジョを騎士団の公式画家として迎え入れました。「洗礼者ヨハネの斬首(1608)」はマルタで描かれたものです。

 

 

 しかし、カラヴァッジョはマルタでも喧嘩沙汰を起こし、騎士団から除名されます。その後、弟分のミンニーティを頼ってシチリアへと逃れました。そしてシチリアでも画家としての名声を勝ち取り、多額の謝礼を伴う絵画制作の依頼を受けています。「聖ルチアの埋葬(1608)」や「ラザロの蘇生(1609)」「羊飼いの礼拝(1609)」はシチリアで描かれた作品です。

 

 

 シチリアでは常に敵対者に付け狙われていて、ローマ教皇の許しを得てローマに戻れるようになるまでは、コロンナ家が大きな権力を持つナポリにいるのが安全だと考えたカラヴァッジョ。

 

 

 わずか9ヶ月でシチリアを去り、再びナポリに帰還します。ナポリ滞在時に「聖ペテロの否認(1610)」や「洗礼者ヨハネ(1610)」、そして遺作となった「聖ウルスラの殉教(1610)」を描きました。

 

 

 しかし、カラヴァッジョは安全だと思っていたナポリで襲撃を受けました。「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ(1609)」の大皿に乗った生首は自身の頭部を描いたものです。カラヴァッジョはこの作品をマルタでの不品行への許しを請うため、騎士団長のド・ウィニャクールに贈りました。

 

 

 また、同時期に描かれた「ゴリアテの首を持つダビデ(1609)」は、若きダビデが不思議な悲しみの表情で巨人ゴリアテの切断された頭部を見つめている作品で、このゴリアテの頭部もカラヴァッジョ自身の自画像です。カラヴァッジョはこの作品をローマ教皇パウルス5世の甥で、罪人への恩赦特権を持つ美術愛好家、シピオーネ卿への贈答絵画にするつもりでした。

 

 

 1610年の夏、カラヴァッジョは、奔走してくれたローマの有力者たちのおかげで近々発布される予定だった恩赦を受けるために北方へと向かう船に乗り込みました。この時、シピオーネ鄕への返礼品として、3点の絵を持参していました。しかし道中のポルト・エルコレで熱病にかかり死去。38歳という短い生涯でした。

 

 

 今日はここまで。次はカラヴァッジョの影響を受けた画家たちについて投稿します。