クリムト、シーレ世紀末への道① | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 大阪国立国際美術館で開催中の「クリムト、シーレ世紀末への道」を見に行きました。

 

 

 日本とオーストリア外交樹立150周年を記念した展覧会で、国立新美術館(東京)から巡回して来たとの事。会期終了が迫っています。

 

 

 

1.啓蒙主義時代のウィーン

 

 展覧会は18世紀後半のウィーンから始まりました。時の支配者はヨーゼフⅡ世(1741-90)。女帝マリア・テレジア(1717-80)の子で、啓蒙思想に傾倒。

 

 

 信仰の自由を認めて教会領の没収と国有化を図った「宗教寛容令」、農民の自由を認めて自作農化を図った「農奴解放令」など、啓蒙専制主義により近代化を図りました。

 

 

 首都ウィーンは音楽の都。歴代の皇帝は宮廷楽団を持ち、コンサートやオペラを上演させました。この時代を代表する音楽家にヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-91)がいます。

 

 

 ヨーゼフⅡ世とモーツァルトの接点はフリーメイソン。フリーメイソンの中では国王も平民も平等。モーツァルトはフリーメイソンの儀式をネタに、オペラ「フィガロの結婚」や「魔笛」を作曲しました。

 

 

 これらの作品は反社会的なものだとみなされ、パリでは上演禁止されました。しかしパリ市民のブルボン朝への反発は止められず、18世紀末、ついにフランス革命が起こります。

 

 

 フランス国家は絶対王権から共和制へと移り変わり、ナポレオンが台頭。ナポレオン率いるフランスとオーストリアらによる第3次対仏大同盟戦争により、1806年神聖ローマ帝国滅亡。

 

 

 神聖ローマ帝国最後の皇帝フランツⅡ世は、没落したハプスブルク家を守るため、オーストリア皇帝フランツⅠ世と称し、オーストリア帝国を設立しました。

 

 

 

2.ビーダーマイアー時代のウィーン

 

 フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として、1814年シェーンブルン宮殿でウィーン会議が開かれました。

 

 

 会議は踊る、されど進まず。翌年ナポレオンがエルバ島を脱出したとの報が入ると、危機感を抱いた各国の間で妥協案が成立し、ウィーン議定書を締結。自由主義・国民主義運動を抑圧するウィーン体制が始まります。

 

 

 自由の利かない閉塞感から、ドイツやオーストリアを中心に、身近で日常的なモノを追求する価値観が芽生えました。いわゆる「ビーダーマイヤーの時代」の到来です。

 

 

 ビーダーマイヤーとは、ドイツの風刺週刊誌に登場する架空の人物に由来します。彼小学校教員で政治や国際情勢には無関心。家庭の団欒や身の回りの食器や家具などに関心を向け、華美なモノを揶揄しました。

 

 

 この時代を代表する音楽家に、ドイツ歌曲をたくさん作り、「歌曲の王」と呼ばれてきたフランツ・シューベルト(1797-1828)が挙げられます。展覧会では彼が着用した眼鏡を見ました。

 

 

 こちらはフェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラー(1793-1865)が描いた「白いサテンのドレスを着た少女(1839)」。日常を描いた素朴な作品です。

 

 

 こちらはルドルフ・フォン・アルト(1812-1905)が描いた「ウィーン、シュテファン大聖堂(1834)」。彼もビーダーマイヤー時代に活躍した画家です。

 

 

 

3.ビーダーマイヤー時代の終焉

 

  1848年革命はオーストリア帝国全土を揺るがし、ハンガリー各地やミラノ、プラハでも暴動が起こりました。ウィーンではメッテルニヒ宰相が失脚。皇帝フェルディナントⅠ世が退位し、甥のヨーゼフⅠ世が18歳の若さで跡を継ぎます。

 

 

 1853年、南下政策を進めるロシアとオスマン帝国との間でクリミア戦争勃発。バルカン半島においてロシアの影響力が増大することを恐れたオーストリアは、オスマン帝国側につき、ナポレオン戦争以来の盟友であったロシアとの関係を悪化させました。

 

 

 1859年にはイタリア統一を企図していたサルデーニャ王国との戦争に敗北。1866年には普欧戦争でプロイセン王国に大敗。オーストリアを盟主とするドイツ連邦は消滅し、ハプスブルク家率いるオーストリアの国際的地位は低下しました。

 

 

 翌年にはマジャール人の自治を認め、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立。オーストリア帝国とハンガリー王国は外交・軍事・一部の財政を共にするだけで、帝国内ではそれぞれ独自の政府と議会をもつこととなりました。

 

  

4.リンク通りとウィーン

 

 排他的なナショナリズムを掲げることができず、すっかり国力を失ったオーストリア。首都ウィーンには将軍たちや支配層の英雄に代わって文人や芸術家たちの銅像が建てられ、オスマン帝国による包囲戦に耐えた城壁は取り壊され、跡地にはリングシュトラーセ(環状道路)が建設されました。

 

 

 リングシュトラーセの沿線にはウィーン宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)をはじめとして、ウィーン市庁舎、帝国議会、取引所、美術館、博物館、ブルク劇場、コンサートホールなどの公共建造物、そして裕福なブルジョアたちの数多くの豪華な建物が相次いで建設されました。

 

 

 そして1873年には、装いを新たにしたウィーンにおいて万国博覧会が開催されます。

 

 

 19世紀後半のウィーン美術界で活躍した人物に、ハンス・マカルト(1840-84)がいます。ウィーンアカデミーの教授で、1879年には皇帝夫妻の銀婚式パレードのプロデュースも手掛け、「画家のプリンス」と呼ばれました。

 

 

 音楽界にはヨハン・シュトラウスⅡ世(1825-99)がいます。生涯のほとんどをウィンナ・ワルツやポルカなどの作曲に捧げ、「美しき青きドナウ」や「皇帝円舞曲」などワルツの名作を多数生み出し、「ワルツ王」と呼ばれました。

 

 

 大阪の展覧会はクリムト登場までの前置きがとても長いのですが、クラシック音楽を専門的に学んだ私にとって、音楽家の名前が出てきたのはとても嬉しい事でした。