昨日の続きです。
黄金の国×日本美術
洛中洛外図は、桃山後期から江戸時代の狩野派の画家たちによって制作された風俗画です。京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の名所や旧跡、四季折々の行事などを描きました。左隻には二条城が、右隻には方広寺大仏殿が描かれています。
創始者の狩野正信は、室町幕府の御用絵師。その後、元信、永徳など優れた絵師を輩出し、画壇の覇権を握りました。江戸時代には、探幽をはじめとする江戸狩野が形成され、代々幕府の御用絵師としての地位を保証されるに至ります。
岩佐派の「源氏物語図屏風」。画面を金雲や塀で区分し、源氏物語54帖から選ばれた「桐壺」「明石」など計12場面を配しています。左隻上部には「玉鬘」の場面が描かれ、新春に贈る衣装を選ぶ光源氏と紫の上の姿があります。
岩佐派は、桃山から江戸初期にかけて、やまと絵、風俗画を手掛けた画家として名を馳せた岩佐又兵衛(勝以)を祖とした画派です。又兵衛の他には、源兵衛(勝重)、陽雲(以重)などがおり、その他にも多くの門人を抱えていました。
「鹿秋草蒔絵硯箱」は、17~18世紀の五十嵐派の作品です。古今和歌集に収められた壬生忠岑の和歌「山里は秋こそことにわびしけれ 鹿の鳴く音に目をさましつつ」の歌意を表現したものです。五十嵐派は室町時代より続くと伝えられる名門で、幸阿弥派と並び称された蒔絵師の流派です。
こちらは宇和島伊達家の家紋である「竹に雀紋」と「賢三引両紋」が描かれた乗物。仙台藩第7代藩主伊達重村の娘・順姫が、伊予宇和島藩第6代藩主伊達村壽に嫁いだ際に用いられた品と考えられています。
こちらは天璋院篤姫の婚礼調度で、陶磁器製の茶碗をのせる台と蓋。薩摩に生まれた篤姫は、安政3年(1856)に右大臣近衛忠熙の養女となり、第13代将軍徳川家定の正室となりました。近衛家の抱き牡丹紋、徳川家の三葉葵紋を配し、二葉葵唐草の意匠が施されています。
四季×日本美術
江戸時代に入り、豪華絢爛な狩野派の様式をすっきりした様式へと革新したのは、狩野探幽でした。探幽は新たにやまと絵の技法を取り入れ、「景物画」と呼ばれる日本の名所における四季や風俗を主題とした新しい絵画の領域を開拓しました。
吉野山の桜、龍田川の紅葉は、春と秋を代表する景色として和歌にも詠まれ、古来より親しまれてきた伝統的画題の一つです。
江戸狩野の継承者として活躍した狩野常信が描いた水墨山水。右隻から左隻へと春夏秋冬の季節の移り変わりを描いた四季山水図です。
こうした四季山水図は、中国より伝承した「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)図」に由来していて、洞庭湖を中心とした8種の構図が四季と組み合わせられ、巧みに画面に取り込まれています。
呉春(松村月渓)(1752-1811)の「蘭亭修契(せいめいじょうが)図(1782-89)」。蘭亭修契とは、東晋の王義之(おうぎし)が、浙江省紹興市の蘭亭に文雅の士41人と集まり、上汜(じょうし)の修禊を行い、作詩したという故事。与謝蕪村の作風を引き継いだ南画様式の作品です。
富士山×日本美術
葛飾北斎(1760-1849)の冨嶽三十六景(1830-32)より「神奈川冲浪裏」。動と静、遠と近を対比させる絶妙な構図は、海外でも「グレート・ウェーブ」と評価され、画家ゴッホや作曲家ドビュッシーをはじめ、世界的に賞讃を受けました。
同じく冨嶽三十六景より「凱風快晴」。凱風とは南風のこと。「赤富士」とも称されるこの情景は、夏から秋にかけての早朝に見られる現象です。
同じく冨嶽三十六景より「山下白雨」。凱風快晴が「赤富士」と称されたのに対し「黒富士」と呼ばれた作品です。画題の白雨は夕立を意味します。
歌川広重(1797-1858)の名所江戸百景より「水道橋駿河台(1857)」。本郷台地から神田川に架かる水道橋越しに駿河台の町を見下ろしています。吹き流しや幟旗、魔除けの鍾馗の幟を揚げるのは武家の習わし。鯉のぼりを揚げるのは町人の文化でした。
歌川広重の「東海道五拾三次之内 原 朝之富士(1833-34)」。富士山の偉容に思わず足を止める2人の女性とお供の男性。既に人気を博していた葛飾北斎の冨嶽三十六景シリーズに対抗したかのような作品です。
日本美術のいろはが分かる一般向けの展示でした。
面白かったのが、3Dメガネをつけて桐鳳凰蒔絵硯箱の中を歩く仮想体験。ほんの数分でしたが、17世紀桃山時代にタイムスリップしたような錯覚に陥りました。