京都国立博物館で謎だったのは、平成知新館前の水盤に浮かぶ金属製の円環。水が出る所でもなさそうです。
足元にも円環。後で分かったのですが、方広寺大仏殿の柱があった場所を示すものでした。
京都国立博物館が所蔵する洛中洛外図によると、京都国立博物館の場所に、方広寺という大きな寺院があったようです。
三十三間堂辺りに方広寺の南大門があり、平成知新館の裏側に大仏殿がありました。
説明によると、金属製の円環は柱の位置を、水盤の前にある石列は、かつて石垣があったおよその場所を示しているとの事。
京都国立博物館の外庭に、大仏殿の敷石や鉄輪がありました。17世紀の物をこうして見れるのもすごい事です。
この鉄輪は、再建した時の建築部材で、巨大な建築物を支える太い柱を、こうした鉄の輪で固定していました。
この3本の柱と2本の石材は、五条大橋の橋脚と橋桁です。中央の柱に「津国御影天正拾七年五月吉日」という文字が刻まれています。
天正17年(1589)、豊臣秀吉が鴨川の五条に架けた大橋の橋脚で、摂津の御影(現在の神戸市)から運ばれてきた花崗岩が使われました。
洛中洛外図によると、左下に五条大橋、左上に方広寺大仏殿、右上に三十三間堂があります。
京都国立博物館から大仏殿跡への道沿いに、方広寺の石塁が残っています。
巨石を用いたこの石塁は、天下人である秀吉の権力の大きさを物語っています。
秀吉が創建した方広寺は、天正14年(1586)に建立が始められ、子秀頼によって整備された桃山時代の寺院です。
方広寺の梵鐘は、慶長19年(1614)に鋳造されました。そこに刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という文言が徳川家康の怒りを買ったのは、有名な話です。
家康という名を分断しているという理由で、豊臣秀頼を挑発したのは、言いがかりにしか思えませんが、この鐘銘事件が引き金となり、豊臣氏は滅亡しました。
細い路地を抜けました。大仏殿跡緑地はすぐそこです。
大仏殿跡緑地の入口で、3年前に訪れた物騒な所が、ここだった事に気づきました。実際事件があったとかではなく、歴史を知らなかった私が当時感じた印象です。
大仏殿は秀吉が奈良の東大寺に倣って造ったもので、文禄4年(1596)に完成しました。
その規模は南北約90m東西約55m、大仏は全長18m。東大寺大仏殿をしのぐ大きさであった事が、発掘調査で確認されています。
寛政10年(1798)の落雷による火災で、大仏殿は焼失してしまいました。
天保年間(1830-44)に寄進された旧大仏木造半身像も、昭和48年(1973)火災によって焼失。小高い丘の周りにある柱跡が、当時の面影を残しています。
帰りは豊国(とよくに)神社に寄りました。
ここは豊臣秀吉を祀った神社で、一般には「ホウコクサン」と呼ばれ、親しまれています。
桐紋は豊臣家の家紋。秀吉は、信長の家臣時代は「五三桐」を使っていましたが、姓を改めたのを境に、後陽成天皇から与えられた「五七桐」用いるようになりました。
慶長3年(1598)63歳で亡くなった秀吉の遺体は、東山の阿弥陀ヶ峯に葬られ、その麓には豪華な廟社が造営されました。
豊臣家は慶長20年(1615)大坂夏の陣で滅亡。廟社は徳川幕府により、取り壊されました。現在の社殿は明治13年(1880)に再建されたものです。
唐門(国宝)は伏見城の遺構で桃山期の逸品。境内宝物館には、秀吉の遺品を納めた唐櫃(重文)もあります。
七条大橋を渡り、京都駅に向かいました。
橋の上からの景色。鴨川はどこまでも続き、はるか彼方には、新幹線や電車が見えました。