カップヌードルミュージアム① | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 NHK朝ドラ「まんぷく」が終盤を迎えた3月20日(水)、カップヌードルミュージアムに行きました。

 

 

 阪急池田駅から徒歩5分とアクセスも良好。建物の前に、カップヌードルの発明者であり、日清食品の創業者である、安藤百福の像があります。ところで、安藤百福ってどんな人だったのでしょうか?

 

 

 百福は明治43年(1910)3月5日、日本統治時代の台湾に生まれました。義務教育終了後、家業の織物業を手伝い、東洋メリヤスを設立。日本から仕入れた製品を台湾で販売し、時流に乗って成功を収めたようです。23歳で来日。大阪に日東商会というメリヤス問屋を設立し、実業家として活動する傍ら、立命館大学専門学部経済科を修了しました。

 

 

 太平洋戦争開戦後は、幻灯機の製造、バラック住宅製造などの事業をしました。その間、軍用機エンジンの部品を製造する工場の経営にも携わりましたが、国の資材を横流ししたという疑いをかけられ、45日間の拘束の後、釈放されました。

 

 

 その後、京都都ホテルでフロント係をしていた仁子(まさこ)と出会い、その細やかな気配りに惚れて猛アタック。約1年の交際を経て、昭和20年(1945)3月、百福35歳、仁子28歳で結婚。その後の人生は朝ドラの通りです。

 

 

 朝ドラは仁子を中心に描いているため、話の展開が遅く、物語の終盤でようやくカップヌードルが出てきました。

 

 

 朝ドラに便乗した安藤仁子展が大人気で、会期を5ヶ月延長したらしく、終了が今月末に迫っています。

 

 

 仁子は大正6年(1917)年8月16日、3人兄弟の末っ子として大阪に生まれました。母・須磨は旧鳥取藩士の家柄で、どんな時でも落ち着いてデンと構えている気丈な女性でした。その生き方と「クジラのように全てを飲み込みなさい」という言葉が、仁子の人生の指針になったようです。夫・百福の破天荒な生き方を大きく包み込み、強力にサポートする原動力は、この「クジラ」にありました。

 

 

 小学校卒業後、金蘭会高等女学校に入学。友人にも恵まれ、成績優秀で級長を務めていましたが、父・重信が事業に失敗して3年目にして学費を払えなくなり、1年休学。大阪電話局で働き、復学後も夜勤で家計を助け、6年がかりで女学校を卒業しました。

 

 

 卒業後、電話交換局で取得した電話交換手の資格と、小学校の頃から培った英語力を武器に、京都でも一流の都ホテルに就職。やがてその仕事ぶりが高く評価され、フロント係に抜擢されました。そこに現れたのが、運命の人、安藤百福です。

 

 

 昭和20年(1945)、太平洋戦争が悪化するさなか、二人は結婚。この時、百福が仁子にした約束の一つが、「食べ物には苦労させない」ということでした。かつて仁子が心に刻んだ母への誓いと響き合い、この約束が世界を変える食の大発明の第一歩となったのです。

 

 

 戦後の日本はどこもかしこも焼け野原。衣食住全てが不自由な時期、闇市で1杯のラーメンを幸せそうにすすっている姿を見た2人は、人間にとって一番大事なのは「食」だとつくづく感じたのでした。

 

 

 日本の復興は「食」からという思いを強く持った百福は、国民栄誉科学研究所を設立。どんな材料が栄養価が高いか考えて思いついたのがカエル。食用ガエルを栄養剤の原料にしようと、圧力釜で調理したら大爆発。天井から鴨居、ふすま、畳まで飛び散り、座敷はメチャクチャに。さすがの仁子も、この時ばかりはこってりと絞り上げたようです。

 

 

 仕事の無い若者が多いことを憂えた百福は、社会奉仕活動のつもりで製塩業などをやりながら、奨学金を若者に支給していました。ところが、この奨学金を給与と見なされ、脱税容疑でGHQに逮捕されてしまったのです。


 

 財産を全て差し押さえられ、百福は巣鴨プリズンに2年間拘留されました。面会に行っても矢継ぎ早に要件を伝えるだけで、仁子の気持ちを聞くのは後回し。その間仁子は、長男宏基と長女明美を一人で出産しました。

 

 

 拘留所から解放された百福に、信用組合の理事長になって欲しいとの依頼が舞い込み、41歳で理事長に就任。経験の無い仕事で、仁子の心配がつきません。案の定、信用組合は6年で倒産し、再び無一文に。この頃から仁子は観音信仰の道に入り、いつも祈るようになりました。

 

 

 栄養剤の開発にしても、信用組合の理事長にしても、猪突猛進の百福に、仁子は我慢の限界が超えることもありました。そんな時、周りにいる人に手を出させ、その手のひらを「くそっ!」と言ってつねるふりをし、溜飲を下げることがたびたびあったようです。

 

 

 未経験の金融業で大失敗した百福は、闇市で見た風景を思い出し、これまでに無いラーメンを作ることを決意。「食が何よりも大事」という百福の考え方と、空腹に苦しんだ仁子自身の若き日々の想い出が共鳴し合い、仁子は黙ってついて行きました。

 

 

 今日はここまで。次回はインスタントラーメンの開発についてお話しします。