修学院離宮① | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

  河原町散策の後は、京阪電車→叡山電鉄と乗り継ぎ、修学院で下車しました。

 

 修学院という地名は、10世紀後半、修学院離宮があった場所に、修学院という寺が建立されたのが始まりです。南北朝時代以降この寺は廃絶しましたが、地名は修学院村として残りました。

 

 駅から歩いて20分。修学院離宮に着きました。開門までまだ時間があり、参観者の列に並んで待ちました。

 

 予約時間の20分前に開門。通行許可証と身分証明証を提示すると、待合室を案内されました。

 

 待合室に流れる映像で、これから歩く道のりや見どころを確認しました。下離宮→中離宮→上離宮の順に歩くこと、それぞれの領域が離れているため、参観は1時間20分かかるという説明がありました。

 

 昨年8月4日(金)午後1時の拝観に参加しました。夏の参観は抽選漏れが少なくて穴場だと思いましたが、ガイドさんのお勧めは11月。紅葉が綺麗で気候も良いということでした。

 

 修学院離宮は、桂離宮に遅れること30余年、後水尾(ごみずのお)上皇の勅願によって、1655(明暦元)年から2年にかけて造営工事が行われ、1659(万治2)年頃に完成した山荘です。

 

 中門をくぐると目の前に下離宮の庭が開け、庭を歩くと寿月観(じゅげつかん)の前に到着します。

 

 寿月観の扁額は後水尾上皇直筆。一の間の襖絵は岸駒(がんく、1756-1839)が描いた虎渓三笑(こけいさんしょう)、戸袋には鶴の絵、地袋には岩と蘭の絵。どちらも筆者は原在中(1750-1837)。二の間の杉戸の絵は夕顔で、筆者不明。三の間の襖絵は岡本豊彦(1773-1845)が描いた泊舟(とまりぶね)です。

 

 下離宮の庭を歩き、反対側の門から出ました。

 

 下離宮を出ると、目の前には田園風景が開けます。松林を歩き、中離宮へ向かいました。

 

 中離宮にある楽只軒(らくしけん)は、後水尾上皇の第8皇女・朱宮光子内親王のために建てられた御所で、1668(寛文8)年頃に創建されたものと思われます。

 

 1680(延宝8)年、後水尾上皇が没すると、朱宮は出家して山荘を拡大整備し、音羽御所を林丘寺(りんきゅうじ)と改めました。

 

 そして1682(天和2)年、故東福門院が生前住んでいた女御御所の奥対面所(控室のこと)を移築し、客殿としました。

 

 随所に見られる飾り金具には葵の紋が配されており、徳川家から嫁いだ東福門院の背後に控える幕府の権勢が示されているかのようです。

 

 一の間の飾り棚は、互い違いに配された大小5枚の棚板が、あたかも霞がたなびいているように見えることから、「霞棚(かすみだな)」と呼ばれています。

 

 また、祇園祭の鉾の絵を描いた杉戸の筆者は、狩野敦信(1639-1718)と言われています。

 

 1884(明治17)年に寺地の半分を皇室に返還し、楽只軒と客殿は修学院離宮の一部になりました。石段の向こうが林丘寺の領域です。

 

 客殿と楽只軒は裏側でつながっています。

 

 楽只軒を覗きました。

 

 一の間の襖絵は吉野山の桜、二の間の襖絵は龍田川の紅葉。筆者は共に狩野探信(かのうたんしん、1653-1718)です。

 

 石段を下り、中離宮を出ました。