先斗町 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 豊臣秀吉に謀反の疑いをかけられた秀次とその一族が処刑された三条河原。三条大橋から見た40人の晒し首は凄まじい光景だったに違いありません。晒し首は処刑後数日間人々への見せしめのために行う刑で、人通りの多い三条河原はその恰好の場で、歴史上の人物が度々晒し首にされました。

 

 三条大橋は江戸時代には東海道五十三次の終点に指定され、幕府の管轄になりました。当時の東海道旅行の実情を記録する「東海道中膝栗毛」に、江戸の住人弥次喜多が厄除けの為に伊勢神宮を参拝し、京都を経て大坂まで足を延ばす話があります。

 

 1590(天正18)年の三条大橋と五条大橋の大改築を経て、鴨川の河原は見世物や物売りで賑わいました。それに伴い、裕福な商人が見物席を設けたり、茶店を出したりしたのが納涼床の始まりです。

 

 鴨川での床が年中行事化したのは17世紀の初頭とみられ、18世紀末頃までは祇園会の前祭から後祭までの期間に限定していたようです。当初は茶屋が鴨川の中州や浅瀬に床几程度のものを臨時に設置していましたが、19世紀の初頭には、茶屋本体に付随した固定化された床が出現しました。

 

 1894(明治27)年の鴨川運河開削や1915(大正4)年の京阪電車鴨東線の延伸などにより、東側の床が姿を消しました。1929(昭和4)年には半永久的な床は禁止になり、第二次世界大戦中は営業停止。1952(昭和27)年「納涼床許可基準」が策定され、復活しました。

 

 京都の花街として有名な「先斗町(ぽんとちょう)」は、三条通の一筋南から四条通まで、鴨川に沿った南北の細長い通りを指しています。もとは鴨川の州でしたが、1670(寛文10)年の鴨川と高瀬川の護岸工事によって埋め立てられました。

 

 先斗町の由来は、鴨川に突き出た岬のような場所にあったことから、ポルトガル語の先を表わす言葉(ponta)を当てた、鴨川と高瀬川の川(皮)にはさまれた鼓にたとえ、ポンと音がするのをもじったなど、いろいろな説があります。

 

 先斗町に水茶屋ができたのは、1712(正徳2)年頃です。高瀬舟の船頭や旅客目当ての旅籠屋が、茶立ての女子を置いたのが始まりとされていますが、正式に芸妓取り扱いの許可が下りたのは1813(文化10)年になってからと言われています。1872(明治5)年には鴨川をどりの初演が行われました。

 

 先斗町歌舞練場は1925(大正14)年に着工し、1927(昭和2)年に完成しました。設計は大阪松竹座や東京劇場などを手がけて劇場建築の名手といわれた大林組の技師、木村得三郎氏です。 鉄筋コンクリート造り、地上四階、地下一階で、当時「東洋趣味を加味した近代建築」と賞賛されました。