金福寺 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 叡山電鉄一乗寺駅で下車。15分ほど歩き、金福寺(こんぷくじ)に着きました。

 

 寺伝によれば、金福寺は864(貞観6)年、安恵僧都(あんねそうず)が慈覚大師・円仁の遺志により創建し、円仁自作の観音像を本尊として安置したのが始まりです。もともと天台宗の寺でしたが、一時荒廃し、江戸時代中期、圓光寺の沢雲長老の法嗣(ほうし)、鉄舟和尚が再興して、臨済宗南禅寺派の寺になりました。

 

 本堂に入り、与謝蕪村(1716-1783)が描いた松尾芭蕉(1644-1694)の肖像画や奥の細道図巻、村上たか女(1809-1876)の晒し者の図や形見の品を見ました。

 

 この3人は、金福寺とどのように関わったのでしょうか?

 

 鉄舟和尚は裏庭に草庵を建て、そこで芭蕉と風雅の道について語り合い、親交を深めました。その時、「翁の水」と呼ばれる井戸水で芭蕉をもてなした、と伝えられています。

 

 芭蕉が鉄舟和尚の草庵を訪れた時に詠んだ句。 「憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥」 草庵の静寂さが伝わってくる一句です。

 

 現在の芭蕉庵は、1776(安永5)に与謝蕪村が再興したものです。芭蕉を崇拝していた蕪村は、俳文「洛東芭蕉庵再興記」を寺に納め、庵が完成した時には次の句を詠みました。「耳目肺腸(じもくはいちょう) ここに玉巻く 芭蕉庵」

 

 蕪村は芭蕉庵でしばしば句会を催しましたが、平俗化する俳諧を憂い、芭蕉の俳風の復興を唱えて改革を行いました。今では「俳諧の中興者」として名を残しています。

 

  蕪村は芭蕉の生涯を称えた碑を建てました。次の句は、碑が完成した時に詠んだものです。「我も死して 碑に辺(ほとり)せむ 枯尾花(かれおばな)」

 

 弟子たちはその遺志をくみ取って、蕪村の遺骨を芭蕉の石碑の傍に納め、お墓を建てました。全国から俳人や俳句愛好家、蕪村研究家などが、蕪村の墓を参り、自作の句や論文を供える人もいるそうです。

 

 高浜虚子(1874-1959)は墓参りの際、次の句を詠みました。「狙(ゆ)く春や 京を一目の 墓どころ」 説明板によると、一番高い山が愛宕山。二条城や京都御所、平安神宮や京都大学が見えるということですが、虚子はここからどのような街を見たのでしょうか?

 

 蕪村の墓の近くに、舟橋聖一の歴史小説「花の生涯」のヒロイン、村上たか女の参り墓がありました。たか女は井伊直弼が不遇の頃の愛人で、直弼が大老になってからは、幕府のスパイとなり、京都で攘夷論者達(薩摩、長州、水戸藩の浪人、公家)の動向を探索し、その情報を幕府に密報することで、安政の大獄に加担した人物です。

 

 1860(安政7)年の「桜田門外の変」で直弼は暗殺され、たか女は勤皇の志士に捕らえられて京都三条河原で生き晒しにされました。その後尼僧になって金福寺で14年間の余生を送り、1876(明治9)年に67歳で波乱の生涯を閉じました。

 

 入口付近にある弁天堂は、たか女が創建したものです。1809(文化6)年の巳年に生まれたたか女は、白蛇が弁天様の使いであることから、弁天様を信仰していました。

 

 金福寺を出ました。詩仙堂のついでに寄った寺ですが、なかなか奥の深い寺でした。