白毫寺境内① | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 太鼓橋を横切りました。この急な勾配は迷いの世界から悟りの世界へ渡る厳しさを表わしているそうで、誰も渡れないようになっていました。

 

 橋の下は心字池で、池のほとりには弁財天が祀られています。

 

 弁財天は七福神の一つで、水の神様。芸能の神様でもあり、琵琶を持っています。

 

 参拝客が並び、順番に鐘を打つため、鐘の音が途絶えることはありませんでした。

 

 石段の上に本殿があります。

 

 石段の脇で石仏が微笑み、参拝客を見守っているかのようでした。

 

 705(慶雲2)年、天竺(インド)の僧・法道仙人が開基。本尊は本殿に祀られている薬師浄瑠璃如来。如来が白毫(眉間の中央にある右巻きの毛)から光を放っていたため、「白毫寺」と名付けられました。

 

 天正年間(1573-92)、本殿の背山で、熊野地方出身の橋爪一族が銅鉱の採掘に当たっていて、その作業の安全祈願のため、熊野権現社が建てられました。

 

 静まりかえった山奥に、赤いシャクナゲや、

 

 ピンクのシャクナゲが咲いていました。

 

  全盛期には、七堂(しちどう)伽藍と93の寺を擁したそうですが、織田信長の丹波攻略に伴い、1580(天正8)年に明智光秀が率いる軍によって焼き討ちに遭い、焼失。その後、地元の人々により再建され、現在に至ります。

 

 南北朝時代の藩主、赤松貞範の保護により、寺は繁栄しました。この供養塔は1365(貞治4)年に建てられたもので、兵庫県の重要有形文化財に指定されています。