昨日の続き。
戦国時代末期、摂津一国の大領・荒木村重が織田信長に反旗を翻したのをきっかけに、信長軍は花熊城を攻めました。天正8年(1580年)花熊城は落城。兵庫の町は信長軍によって焼かれます。
落城後、城攻めの中心となった信長の家臣・池田恒興(つねおき)らによって、兵庫の町の中に城が築かれ、町全体を堀と土塁で囲んだ城郭化が進められました。この中心に築かれたのが、「兵庫城」です。
その後、兵庫津は豊臣家の直轄地となります。豊臣秀吉は、兵庫津の豪商である正直屋を下官として、兵庫津を治めました。秀吉の庇護の下、瀬戸内海を経由して日本国内のものばかりでなく、中国・朝鮮・東南アジアなどの文物が行きかいました。
兵庫津の商人たちは、交易で得た私財をもとに、戦国大名や京都・大阪・堺など大都市の商人たちの間で流行した茶の湯の文化もいち早く受け入れていったようです。
兵庫津は、元和3年(1617年)に尼崎藩領となりました。兵庫津は、北前船(きたまえぶね。北海道から日本海を廻って江戸や大坂へ着く船)や尾州廻船(びしゅうかいせん。知多半島を拠点にした船)の拠点の一つとなり、日本中の物資の集積地として、ますます発展しました。
また、兵庫津は朝鮮通信使の滞在地にされました。朝鮮通信使は、室町時代以後、朝鮮国王が日本に派遣した使節の1636年以降の名称です。一行は釜山(プサン)から対馬を経て、江戸城へ行き、国書や進物を献上し、将軍からの返書などを受け取りました。文化8年(1811年)を最後に途絶えましたが、鎖国中の幕府が推奨した朱子学も朝鮮通信使によって伝えられたものです。
さらに、西国街道の宿場町として、陸路の面からも交通の要衝として発展を続け、宝永8年(1711年)には人口2万人を数える国内でも有数の都市に成長しました。兵庫津の商人たちが暮らした町屋で発見された出土品には、茶道具や磁器の大皿などがあり、商人の豊かな暮らしぶりが覗えます。
兵庫津で出土した陶磁器。国産の陶磁器は江戸時代に完成しました。
兵庫津で出土した生活用品。喫煙の習慣は、江戸時代の始めに広まったようです。仏像や動物をあしらった土人形、文字や絵が描かれたメンコ、貝や銅や土で作られたベーゴマ、操り人形の頭なども出土しました。これらの玩具類は、遊び道具としてだけでなく、置物や賭け事の道具として、大人にも親しまれました。
幕末の動乱期になると、日本近海に外国船が姿を現すようになります。紆余曲折を経て日本は開国に踏み切り、近代化への扉を開きました。
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