山科疎水と天智天皇陵 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 山科疎水の遊歩道を歩きました。山科疎水は琵琶湖疎水の一部で約4kmあります。犬を連れた人、買い物袋を下げた人、自転車を引いた人など、地元の人たちが散歩をしていました。

 

 遊歩道からJRの線路や京都薬大が見えました。

 

 行き止まりで対岸を渡りました。この遊歩道は桜の名所であり、紅葉の名所でもあります。

 

 第2トンネルに差し掛かりました。この付近はかつて疎水に使うレンガの工場があったそうです。琵琶湖疎水は琵琶湖から京都市内へ流れる水路で、明治18年(1885)に建設を始め、明治23年(1890)に第1疎水が完成しました。この疎水工事は外国人技術者の手を借りず、日本人の手だけで行われた一大プロジェクトでした。

 

 第1疎水は琵琶湖から琵琶湖疎水記念館まで。トンネルは3ヶ所あり、出入口に明治の有力政治家が書いた扁額(へんがく)が掲げられています。第2トンネル入口部の扁額は、井上馨の「仁以山悦智為水歡(じんはやまをもってよろこび、ちはみずのためによろこぶ)」でした。仁者は動かない山によろこび、智者は流れゆく水によろこぶ、という意味です。

 

 第2トンネルで行き止まりだったため、来た道を引き返しました。

 

 途中、大津から蹴上へ向かう観光船とすれ違いました。観光船は来年度から営業が始まり、春と秋の計80日間、大津⇔蹴上間を1日9便往復するそうです。

 

 御陵(みささぎ)駅から大津方面へ歩くと、石造りの日時計が現れました。天智天皇が日本で初めて時刻制度を定めたことに由来するモニュメントです。

 

 日時計を左に曲がり、天智天皇山科陵への道を歩きました。

 

 天智天皇は626年に、第34代舒明天皇と第35代皇極天皇の間に生まれました。中大兄皇子とも呼ばれています。中臣鎌足と組んで645年、蘇我入鹿を倒し、叔父の孝徳天皇の下、大化の改新を推進。天皇中心の中央集権国家の礎を築きました。

 

 663年白村江の戦いで敗北し、667年に飛鳥から大津に遷都。翌668年第38代天智天皇として即位。近江令の制定、戸籍の制定などを行いました。即位3年目の672年に崩御。天智天皇は自然豊かな山科の地を訪れ、よく狩猟をしていたこともあり、山科に埋葬されました。

 

 天智天皇の死後、息子の大友皇子と弟の大海人皇子の後継者争いで豪族たちが対立し、内乱になりました。これが672年壬申の乱です。結果は大海人皇子が勝ち、第39代天武天皇に即位しました。

 

 天智天皇陵を出た後、地下道を抜け、山科駅に戻りました。遠方へ行った日は電車に乗っている時間が長いので、歩数を稼げません。約18,000歩でした。