大黒寺 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 御香宮神社から大黒寺への道は、1年半前に通った道で見覚えがありました。大黒寺も2015年9月26日のブログ「伏見名水巡り2」に少しだけ出てきます。

 

 大黒寺の開基は空海だと伝えられています。もとは「長福寺」といい、豊臣秀吉を初め、武家の信仰が厚かったそうです。

 

 江戸時代の初め、この近くに薩摩藩邸が置かれ、薩摩藩主・島津家の守り本尊「出世大黒天」と同じ大黒天が祀られていたことから、1615年に薩摩藩の祈願所と定められ、大黒天を本尊として、寺名も大黒寺に改められました。

 本尊・秘仏大黒天は金張の厨子の中に安置され、60年に1度、甲子(きのえね)の年に開帳されます。今度の開帳は2044年。かなり先です。

 

 「金運清水(しみず)」と命名された井戸は、2001年に新しく掘られた井戸で、大黒天に供えられる霊験あらたかな水と言われ、金運良好、資産増加、厨房守護、子孫繁栄などに御利益があると言われています。

 

歴史上に残る人物の墓を年代順に追ってみました。

 

●平田靱負(ゆきえ)の墓

 平田靱負は薩摩藩の家老で、幕命によって1754年から1年ほど施工された木曽川・長良川・揖斐川の治水事業で薩摩藩を指揮しました。薩摩藩は財政難でしたが、度重なる災害で財政がさらに悪化し、薩摩藩士は過酷な労働を強いられました。工事中に薩摩藩士51名が自害、33名が病死。工事完了後に平田靱負も指揮者として責任を感じ、自害しました。

 

●伏見義民の墓

 義民とは、飢饉など人々が困窮している時に一揆の首謀者になって 私財や生命を賭けて活躍した百姓のことで、ここでは文殊九助(もんじゅくすけ、1725-1788)を指しています。文殊九助は1785年に起きた天明伏見騒動の指導者で、伏見奉行・小堀政方の悪政を幕府に訴え、免職に追い込みました。

 

●寺田屋事件で犠牲になった九烈士の墓

 寺田屋事件というと、伏見の旅館寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を、 伏見奉行配下の捕り方(罪人を捕える役の人)が急襲した1866年の事件を思い浮かべますが、1862年の事件のほうが大きな事件だったようです。

 その寺田屋事件とは、討幕を計画する薩摩藩や他藩の急進派の勤皇の志士たちが寺田屋に集合することを知った薩摩藩主・島津久光が暴挙を鎮圧した騒動です。有馬新七ら9人が犠牲になり、その2年後に西郷隆盛が墓を建てました。烈士とは、革命や維新などにおいて戦い功績を残し、犠牲となった人物のことです。

 

 1年半前は墓を見なかったので、大黒寺が歴史のつまった寺だと初めて知りました。今後の散策は、季節を変えて同じ所を訪れるのもいいかもしれません。