オーストリアの家 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

8館巡りの次は3館巡りのパスポートを買いました。まずはオーストリアの家からです。

 

 オーストリアには歴史に残る音楽家がたくさんいます。世界のコンサートホールで演奏されるクラシック音楽の多くはオーストリアで生まれました。その中でも有名なのがモーツァルト。35年の短い生涯で約900曲残しました。

 

 モーツァルトは1756年ザルツブルクで生まれました。宮廷音楽家の父のもと、3歳からチェンバロを始め、5歳で作曲をしたと言われています。宮廷サロンでの演奏が好評を博し、神童ともてはやされました。

 当時のオーストリアは、ハプスブルク家の女帝、マリア・テレジアが支配していました。

 

 モーツァルトの部屋。当時音楽家は宮廷音楽家として生計を立てるのが一般的でしたが、貴族と対立したモーツァルトは、25歳頃からフリーの音楽家になりました。稼ぎが減った上、妻コンスタンツェに浪費癖があったため、晩年は借金を抱えるほど困窮していたそうです。1791年にリューマチ性炎症熱で亡くなりました。

 

 もともとハプスブルク家は、スイスのアールガウ地方という山岳地帯のハプスブルク城の小領主として出発しました。10世紀に南ドイツに領土を拡大し、頭角を現わしました。

 

 神聖ローマ皇帝は代々イタリア政策に力を入れたため、ドイツ本土まで皇帝の支配権が及ばず、有力諸侯がそれぞれ領邦を形成しました。ドイツ皇帝は代々有力諸侯から選出され、13世紀にはハプスブルク家のルードルフ1世がその地位につきました。ルードルフ1世は土地が肥沃なオーストリアへ領土を拡大し、本拠地をウィーンに移しました。

 

 14世紀、カール5世は神聖ローマ皇帝を退位する際、広大なハプスブルク家の領土を1人で統治することは不可能だと考え、領土を弟フェルディナントのオーストリア=ハプスブルク家と、子フェリペ2世のスペイン=ハプスブルク家に分割しました。

 フェリペ2世の時代に、ネーデルラントや南イタリアなどの領地の他にポルトガルも併合し、広大な海外植民地を支配し、15世紀から16世紀にハプスブルク家は全盛期を迎えました。

 

 18世紀、マリア・テレジアはカール6世の跡取り娘として、オーストリアの統治権を受け継ぎ、16人の子供を産みました。マリー・アントワネット(1755-1793)は15番目の子です。ヨーロッパの覇権をめぐって対立関係にあったオーストリア=ハプスブルク家とフランス=ブルボン家は、プロイセン王国の巨大化を恐れて友好関係を結びます。

 

 マリー・アントワネットは14歳で、ルイ16世と政略結婚をしました。狩猟が趣味のルイ16世とはすれ違うことが多く、作法に厳しい宮廷生活がストレスだったこともあり、浪費癖に拍車がかかりました。国家の財政が苦しく、パンに飢えている市民の反感を買いました。

 

 1789年7月14日、パリ市民がバスティーユ牢獄を襲撃し、暴動から革命へと転化しました。1791年にブルボン朝が倒れ絶対王政終了。1793年の革命裁判でマリー・アントワネットはギロチンの刑にされました。

 

 フランス革命やナポレオン戦争がハプスブルク家に深刻な影響をもたらし、1806年には神聖ローマ帝国が消滅。ハプスブルク家はオーストリア帝国の皇帝として存続することになりました。

 1914年、オーストリア=ハンガリー帝国は同盟国として第1次世界大戦に参戦。フランスなどの連合国に負け、1918年にハプスブルク家は歴史上から消えました。