JR嵯峨嵐山で降りました。この駅で降りるのは4度目です。北西へ15分ほど歩き、宝筺院(ほうきょういん)に着きました。
白河天皇(1053-1129)によって建てられた善入寺は、南北朝時代に夢窓国師の高弟の黙庵周諭禅師が入寺し、室町幕府2代将軍足利義詮(あしかがよしあきら、1330-1367)の保護を得て臨済宗の寺になりました。義詮の死後は菩提寺になり、義詮の院号に因み寺名は宝筺院と改められました。
応仁の乱以降は衰退し、明治の初めには廃寺になりましたが、1917年に楠木正行(くすのきまさつら)の菩提を弔う寺として再興されました。本尊は木造十一面千手観世音菩薩立像です。
本堂から見える枯山水庭園がとても綺麗でした。
楠木正行は1325年、楠木正成の長子として河内に生まれました。湊川の戦で父が戦死した時は11歳。その後楠木一族の頭領となり、南朝に仕えました。
1347年、足利尊氏が派遣した細川顕氏・山名時氏らの北朝軍を摂津国で破りましたが、その翌年、四条畷の戦で高師直・師泰らに敗れて自害し、23歳で生涯を終えました。
戦の前に吉野行宮に参上、後村上天皇より「朕汝を以て股肱とす。慎んで命を全うすべし」と励ましの言葉をもらいましたが、その後、後醍醐天皇の御廟に行き、如意輪堂の壁板に各自の名を記して歌を書き付けたと伝えられています。
かえらじと かねておもへば 梓弓 なき数に入る 名をぞ 止むる
(意味)生きては還るまいと予め決心したから、鬼籍に入る我らの名をここに書き留めるのである。
右が楠木正行の首塚で、左が足利義詮の墓です。黙庵周諭禅師が正行の首塚を葬り、後に正行について黙庵から話を聞いた義詮が正行の人柄を褒めたたえ、自分もその傍らに葬るように頼んだため、2人の墓が並んでいます。
墓前の石灯篭は富岡鉄斎(1837-1924。明治・大正期の文人画家、儒学者)の書で、右側のものは「精忠」、左側のものは「碎徳」と刻まれています。「精忠」は最も優れた忠で、「碎徳」は一辺の徳。敵将を褒めたたえ、その傍らに自分の骨を埋めさせたのは徳のある行いだが、義詮の徳全体から見れば小片にすぎない、という意味で、義詮の徳の大きさを褒めた言葉だそうです。
11月上旬の紅葉は少しだけ色づいていました。宝筺院を出ました。次に続きます。