孫文記念館(呉錦堂) | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 孫文記念館はもともと神戸で活躍していた中国人実業家・呉錦堂の別荘「松海別荘」を前身としており、1915年、その別荘の隣に八角三層の楼閣「移情閣」が建てられました。外観が六角形に見えるところから、地元では「舞子の六角堂」と呼ばれていました。

 

 建物は移情閣の名残が残っていて、その1階は映像室です。掲示物の内容が短くまとめられていて、ここを見るだけでも孫文のことが大まかに分かります。

 

急な階段を上り、2階へ。

 

2階は呉錦堂(ごきんどう)に関する資料室です。以下、文献の抜粋です。

 

 呉錦堂は、1855年に浙江省寧波(ニンポー)の農家の長男に生まれる。少年時代は、寧波で豆腐屋、上海ではローソク店で働く。1885年、海を越えて長崎に渡り、1888年、大阪に出て義生栄号を起こす。1890年、神戸で貿易と海運業「怡生(いせい)号」を創立。以後神戸と上海、寧波を拠点としてさまざまな事業を展開。1926年神戸市葺合区の自宅で亡くなる。遺骸は1930年、故郷の白洋湖畔に埋葬される。

 

~呉錦堂が展開した事業~

 

日本では、

  •  開拓・・・小束野開拓
  •  製造・・・鐘紡、東亜セメント、大阪メリヤス、内外綿
  •  貿易・海運・・・義生栄号(大阪)、※怡生号(神戸)、※義生洋行(上海)

※マッチの貿易を通じて瀧川辨三(べんぞう)・儀作と親交を深め、合弁で貿易会社「義生号」を起こす。瀧川辨三は、神戸で清燧(せいすい)社などを創り、マッチ製造に取り組み、「日本のマッチ王」の異名を取り、神戸商業会議所等の要職に勤める。儀作も父の事業を継承し、神戸華僑と深い関係を築き、日支実業協会の創立に参画、1924年孫文の「大アジア主義」講演を主催。戦後も神戸中華同文学校校舎新築等でも尽力した。

 

 中国では、

 

  •  交通・・・寧紹輸船公司、寧紹航運維持会・商艦協会、浙江鉄路
  •  製造・・・漢陽鉄廠、漢冶萍公司
  •  郷土建設・・・杜湖・白洋湖灌漑、錦堂学校

 

 呉錦堂は、神戸華僑社会の基礎を形成した人物で、華僑と神戸市民との間に太い絆を築く上でも大きな役割を果たしました。

 

孫文記念館を出ました。次に続きます。