散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

2月9日(月)あべのハルカス美術館。「密やかな美―小村雪岱せったいのすべて」を見に行きました。

 

 

小村雪岱(1887~1940)は、大正から昭和初期にかけて活躍した美術家です。日本画や書籍の装幀、挿絵や映画の美術考証、舞台装置に至るまでを幅広く手がけ、情趣溢れる端麗な画風から「昭和の春信」と称されました。

 

 

  プロローグ 密やかな美

 

《青柳》は大正13(1924)年頃の肉筆画で、日本橋界隈の春の情景を描いたものです。雪岱は、明治35(1902)年から6年ほど、日本橋檜物町に住んでいました。日本橋は大正12(1923)年の関東大震災によって様変わりしましたが、雪岱にとって忘れえぬ大切な場所だったようです。畳の上に描かれた琴と三味線というモチーフは、他の作品にも繰り返し描かれています。

 

 

秋を描いた《落葉》、冬の早朝を描く《雪の朝》は、日本橋の光景を描いた肉筆画3部作とされていますが、もとは夏の景色を含めた4部作だったとの話も伝わります。3点とも、資生堂の初代社長・福原信三と一緒に、若い作家を支援した弟の福原信辰が描かせたもの。また、旧蔵者はいずれも、雪岱と交友のあった資生堂関係者でした。

 

《落葉》

 

《雪の朝》

 

 

  第1章 「小村雪岱」の誕生まで

 

小村雪岱《春昼》

東京美術学校時代の雪岱は下村観山教室に学び、古画の模写や風俗考証も学びました。また、泉鏡花の小説世界に親しみ、明治41(1908)年の卒業制作では、鏡花作品そのままに題名を付けた《春昼》を出品しました。

 

 

松岡映丘《浦の島子》

卒業後の雪岱は、画工として地道に絵画制作を続けました。展示室で見たのは、松岡映丘《浦の島子》の模写。雪岱は明治43(1910)年から大正元(1912)年頃まで美術雑誌『國華』で模写に従事しており、その地道な仕事が、後の画業へとつながっていきました。

 

 

  第2章 泉鏡花『日本橋』― 装幀の始まりと開花

 

泉鏡花『日本橋』

雪岱を語るうえで欠かせない存在である泉鏡花きょうか(1873~1939)。大正3(1914)年9月、雪岱が初めて本の装幀を手がけたのが、鏡花の『日本橋』でした。日本橋の河岸と、そこを舞う無数の蝶々という構図は鏡花を満足させ、以降、雪岱は鏡花本の大半を手がけることとなります。

 

 

  第3章 意匠家のまなざし ― 古典からモダンまで

 

資生堂小冊子『銀座』

装幀での活躍をきっかけに資生堂の福原信三しんぞう(1883~1948)に認められ、大正7(1918)年から大正12(1923)年にかけて、弊社宣伝・デザイン部の前身である資生堂意匠部に所属しました。和風のデザインを手掛けるほか、現在まで受け継がれている「資生堂書体」の基礎を築いています。

 

 

法隆寺金堂壁画

関東大震災発生の翌年に新興大和絵の大家・松岡映丘えいきゅう(1881~1938)から、東京美術学校の古名画模写事業に誘われ、資生堂を退社した雪岱。震災を契機に重要性を増した模写制作を通し、数多くの古美術の優品を目にする機会を得たといいます。展示室では雪岱の模写を見ました。

 

 

  第4章 挑戦と模索の時代:1926~1931年

 

「大菩薩峠」舞台装置デザイン画

時代が大正から昭和へと移り変わるなか、雪岱は変わらず装幀の仕事を続けていましたが、ここで注目したいのは舞台装置の仕事です。「安士の春」「桐一葉」「大菩薩峠」「一本刀土入」などの代表作が生まれるのがこの時期。役者を引き立てるための装置図と現実の空間を行き来する体験は、その後の仕事にもつながっていきました。

 

 

  第5章 「九九九会」の集いから

 

泉鏡花「筆塚」

第5章の要となるのは、泉鏡花を囲む「九九九会(くうくうくうかい)」の存在です。会費の九円九拾九銭に由来するこの会には、岩田藤七、岡田三郎助、鏑木清方、木下杢太郎、久保田万太郎、小村雪岱、里見弴、水上瀧太郎、吉井勇など多様な芸術家が参加しました。湯島天神境内にある筆塚は、昭和17(1942)年にこのメンバーが中心になって建立したものです。

 

 

  第6章 挿絵の真骨頂―粋と艶の美学

 

邦枝完二『おせん』

新聞や雑誌など大衆文芸によって広がりを見せた雪岱の挿絵で外せないのが作家・邦枝くにえだ完二かんじ(1892~1956)の存在。「江戸役者」や「おせん」などでタッグを組み、名コンビとなった邦枝と雪岱。雪岱はこの時期、大胆な余白やコントラストが特徴的な「雪岱調」を確立していきます。

 

 

  第7章 世の需めに応えて―円熟期の装幀・舞台装置・肉筆

 

『演芸画報』昭和5(1930)年10月号

『演芸画報』は、明治40(1907)年から昭和18(1943)年まで刊行されていた歌舞伎雑誌です。雪岱も何度か表紙絵を描きました。他、『婦人之友』や『文芸春秋』の表紙絵も手がけています。

 

 

小村雪岱《赤とんぼ》

昭和12(1937)年頃に制作した絹本着色の肉筆画です。この頃、挿絵画家として不動の地位を確立していた雪岱。人との協働から生まれる挿絵や装幀と同様、肉筆画も自分らしさを全面に押し出さず、定型的な表情や姿態によって女性を描きました。

 

 

《春告鳥》

昭和7(1932)年制作の肉筆画。微かな情感が雪岱らしい作品。鑑賞者が想像する楽しみのために設けられた「余白」も、雪岱の肉筆画の特徴と言えます。

 

 

「稽古扇」舞台装置原画

「稽古扇」は、原作者の泉鏡花が一幕二場の戯曲に書き下ろした作品。様々な男から懸想され、翻弄される扇橋のお藤(花柳章太郎)の物語。昭和9(1934)年7月、明治座公演。髪結いのお綱を新派の河合武雄、舟虫の紋次を喜多村緑郎が演じました。

 

 

  第8章 別れの時:1939~1940年

 

わかもと京団扇「星月夜」

京団扇は、わかもと製薬が全国の販売店に向けて顧客贈呈用に販売したものです。雪岱の描く江戸美人が彩色数度木版摺りで製作されるという豪華な表面と、裏面にはわかもと製薬の文字広告、さらに団扇を購入した販売店の名前や住所が印刷できる仕様になっています。この企画は好評だったようで、翌年にも販売が行われました。

 

 

林房雄『西郷隆盛』

雪岱を画業へと導いた恩人・泉鏡花は昭和14(1939)年に没します。雪岱はその没後の顕彰に力を注ぎましたが、翌年には後を追うように自身もこの世を去ります。こうして林房雄の長編小説『西郷隆盛』の挿絵原画が絶筆になりました。

 

 

  エピローグ 没後の顕彰

 

魅力ある作品を生み出すために、様々な人々との協働を続けながら、自らのスタイルも確立した小村雪岱。その仕事は没後85年を迎えたいまも、変わらぬ魅了を放ち続けています。

 

小村雪岱《見立寒山拾得》

昭和16(1941)年頃

 

小村雪岱《雪兎》

昭和17(1942)年頃

 

 

展示室の出入口にあった作品。雪岱のすべてを知ると、後ろ姿の女性が話し手で顔を見せている女性が聞き役。何か良からぬ噂話をしているのかと想像力を掻き立てられる構図がいいなと思えるようになりました。

 

 


あべのハルカス美術館にて3月1日(日)まで開催中。その後千葉市美術館を巡回します。