最近、とみに世に中変わったな、という感慨にふけることが多い。

すぐ近くに保育園があるが、子供の送り迎えをしている男性がずいぶん増えた。育児パパであろう。

 他人事ではない、中学校の教師をしている私の息子も今、育児休業をとっているのである。育児休業というと、せいぜい産前産後の一、二か月ぐらいのものだと思っていたが、6か月の予定だそうだ。

連れ合いが職場に復帰したことに伴い、代わって夫の方が育児をすることになった。まさに育児のための休業なのである。

 赤ちゃんはまだ1歳8カ月、やっと離乳食にも馴れてきたころである。息子は連れ合いが職場から帰るまで、一日中食事をさせたり、おしめをとり換えたり子供の世話の一切をやっているという。「専業主夫」とはまさにこのことを言うのだろう。

 近くの保育園にも入れなかったので、毎日、持て余し気味に近所の公園に子供を連れて行って遊ばせていると、顔なじみのご近所さんから「たいへんですね」と声を掛けられるそうだ。

 だから近頃は、東京の品川区の借家から川崎の私の家に赤ちゃんを連れてよく遊びに来る。赤ちゃんを私の妻に任せることができるからだ。

妻が働き、夫は家で子供の世話をする。私のような昔の人間にとって、まさに「さかさま」、世の中、ここまで変わったのかとびっくりするのである。

 

 私の時代には考えられないことで、会社の同期入社は70人ほどいたが、共稼ぎなどは殆どなく、妻は専業主婦ばかりだったと思う。

私の妻も女子高の教師をしていたが、結婚とともに退職、典型的な専業主婦となった。もともと職業婦人は合わなかったのか、その後一切職に就こうとはしなかった。私は何一つ育児には関わらなかった。毎晩遅く酔っぱらって帰って来る亭主を妻は寛大に受け入れてくれた。少なくとも正面きって文句を言われたことはなく、三人の子供を育て上げた。そんな家庭が普通といえば普通だったのである。

 

 先日、息子がやってきた時、ちょっと疲れた顔でこんなことを漏らした。「赤ちゃんには母性愛というものが必要じゃないかと最近思うようになった・・・」   

母性愛とは何か、定義が難しいが、息子に言わせると、赤ちゃんの今必要なのは父性愛ではなく、母性愛ではないか、ということである。母性と父性はおのずからその意味と役割が違うのではないかということである。期せずして私の妻も加わって、子育て論、家庭論が展開されたのである。

長くなるので続きは次回。

 

 注)育児休業は法律に基づく休業であり、育児休業期間中は1歳まで(保育所が見つからないときは2歳まで)67パーセント(6か月以降は50%)の所得が保証されるという制度のようだ。