『幻の加那と古代日本』文藝春秋

 

 「ここまでわかった日韓古代史」との副題がついている。

慶州(新羅)、扶余(百済)、平壌(高句麗)、開城(高麗)等の朝鮮の古都を訪ね歩き、日本の古代史と突き合せ、日本と朝鮮の古代の関係に思いを馳せる。

 私が注目したのは任那である。任那日本府は実在したかという問題である。今の若い人は知らないと思うが、私の時代は学校で「任那日本府」というものがあったということを教わった。

現在では「任那日本府」は否定され、「任那」という言葉すら使われることはない。今日の歴史学では、任那は朝鮮南部の加羅地方の小さな街の一つにすぎず、日本の出先機関があったことは証明されていないということだろう。

「任那日本府」は「日本書紀」にも記載があり、日本人に長く信じられていたが、つまるところ朝鮮に対する日本人の奢りであり、上から目線の一つであったということかもしれない。

 

 本書の後半では、古代仏を巡る朝鮮と日本の関係がつぶさに語られる。

「日本の国宝中の国宝は、ほとんど朝鮮民族によって作られた。有名なものでは法隆寺の「百済観音」という仏像もある」という柳宋悦のいささか刺激的な言葉も引いている。それだけ古代朝鮮の影響は大きかったということである。

 ところで、私が大好きな仏像に弥勒菩薩半跏思惟像(広隆寺)や半跏思惟像(中宮寺)がある。実際に私が見たのは中宮寺の思惟像であるが、その温和で安らかで包容力のある不思議な表情にいささか陶酔したものだ。

 これらの仏像も朝鮮渡来の仏師たちの作品であるという。そして、朝鮮半島から渡来してすぐの仏師の作か、数代隔てた仏師によるものかを区別している。

法隆寺の百済観音は比較的渡来すぐの技術者、夢殿観音や中宮寺の半跏思惟像は数代たった子孫の作であるとしている。

 渡来後すぐの製作か何代か後の製作かはあまり意味がないと思う。いずれにしても、古代の仏像の殆どが朝鮮半島の人達の作品であり、見方を換えれば古代の日本と朝鮮の関係は極めて密接な関係があったことを痛感させられるのである。

 

 先月読んだ『古事記』でも朝鮮との親密な関わりを示すエピソードがよく出てきた。例えば安孝天皇が即位のとき病弱で勤まらないと思っていたら、新羅の国王から貢物があり、その使いの者が薬の知識が豊富で、天皇の病を直してくれたといった話があった。

現代よりも古代のほうが友好的で繋がりも強かったような気がする。

 中国、韓国、日本は顔も似通っている。漢字(韓国ではハングル文字となったものの名前はまだ漢字である)や儒教などの共通の文化的基盤がある。難しいことは百も承知で、古代に劣らず親密な関係を構築し三国は協力して国際平和を目指すべきであると言いたい。