『三島由紀夫論』 平野啓一郎著 新潮社

 

 六百ページを超える大作である。二十数年かけて完成した渾身の三島論と言ってもよい。かなり難解な本で、活字の字面だけを追うのが精一杯。どれだけ理解できたか心もとないというのが正直なところである。したがって、私の浅はかな理解に基づく読書感想であることを前もって記しておく。

 

 本書の著者平野は、デビュー当時「三島の再来」と呼ばれ、また、あとがきでも、小さい頃に「金閣寺」に圧倒され三島に心酔するようになったことを吐露している。その豊富で煌びやかな語彙、堅牢たる虚構、思想と論理の饗宴といった点で平野と三島は相通じるものがある。

 私が通読して感じたのは、本書は平野が三島という巨峰を仰ぎ見ながらも、その三島を超克するために書いた三島論ではないかということである。

「仮面の告白」論、「金閣寺」論、「英霊の声」論、そして「豊饒の海」論からなり、もっとも力を注いでいるのは「豊饒の海」論でおよそ本書の六割を費やし論じている。

 三島の小説を突き詰めていけば、「仮面の告白」及び「禁色」と「豊饒の海」の三作に集約されるというのが私の三島観である。

「仮面」と「禁色」は三島のイタセクスアリスでありホモセクシュアルに傾斜していった著者の生来の性向を率直に吐露したものであり、三島の拠って立つ原点のようなものを反映している作品であると思う。

ちなみに「金閣寺」は代表作と言われるが、三島の存在との切実な関係が希薄でいかにも観念的な作品であると私は思う。

一方「豊饒の海」は、一種の三島の遺言的な作品で、三島の死に至る思想的煩悶の経緯がたどれるような作品である。死の思想が仏教の論理の中で悪戦苦闘しているような作品と受け止めることもできる。

 

 さてこの三島論は、著者が三島を超克するためのものであったと書いたが、例えば、「豊饒の海」で展開される仏教の思想について平野はこんなことを書いている。

「三島の唯識研究のあとからは、仏典を直接深く読み込んでいる風には見えない」「彼の理解不足、誤解は作品の根本に大きな問題を生じさせている。」

仏教の哲学的深部に立ち入り、唯識の世界認識とは何かを詳細に展開しての三島批評である。

 三島の唯識論の理解に対して正面切って異義を唱えているのである。私にはこれについて論評する力はない。ひたすら平野の三島を超えようとする学究と明晰な分析力とその自信に驚嘆するしかない。

 私は「天皇論を読む」のコーナーでもお分かりのように天皇論に対して興味があり、本書の「英霊の声」論で扱っている三島の天皇論を念を入れて読んでみた。

著者は三島の天皇論に対しても、「三島の天皇信仰とは、「永遠の現実否定」であり「永久革命的」なものである。」という観点から三島の天皇論の欠陥を衝き、否定的に評価するのである。

 

 三島の死後に生まれた作家ならではの三島論には独自の新鮮味があるのは当然かもしれないが、三島と同時代の評論家、作家にはない新しい時代を明瞭に感じざるを得なかった。

三島の晩年の一挙手一投足を興味深く見守ってきた私に、圧倒的な印象をもたらす三島論であったといわざるを得ない。