Ⅰ 白い蝶の眩暈

 

入水自殺者にとって、満月の海は魅惑的である。

彼の蒼ざめた想念に降りそそぐ透明な月光は殆ど甘美な殺意である。

もしかすると、彼を死に赴かしめるものは、みずからの意思ではなく、この殺意によってである。

だが漆黒の闇の海で、沖にむかい一歩ずつ歩を進めていく者にとって、

闇夜の海が満月の海よりはるかに甘美であることを知るに違いない。

私はある闇夜の海で入水自殺者を目撃したことがある。

生暖かい晩春の夜であった。闇に紛れてその人影は判然としなかったが、沖に向かって一歩一歩のめりこむように進むその背中は、むしろ闇よりも昏かった。

私は入水自殺者を確信した。

海はまるで静謐を病むように静かだった。

闇の向こう側から忽然と無数の白い蝶が繊い長い列をつくり、幾重にも彼を襲った。

すでに白い蝶の群れは彼の頸の周りに冷たい感触を与え、躁やぎながら通り過ぎていく。

彼は白い蝶の囚となる。死へ導く眩暈が訪れる。

不意に私は彼を見失う。彼は海に溶けたのか。闇が彼の中に溶けたのか・・・・。

私はしばらく呆然と闇を凝視めていた。海は相変わらず静かな無数の白い蝶を産み、

沖のほうから絶え間なくその繊く長い線を押し寄せ続けた。

戦慄が襲ってきたのは、私が私の貧しいアパートのドアを閉めた時だった。

 

 

 

「たぶららーさ」は私の詩集の題名である。「白紙還元」とでも訳したい。

本文は若い時に書いたものである。他に何編かあるので機会を見て公開していきたい。

いずれも散文詩のつもりで書いたが、今読むと怪奇なショートショートの趣がある。暇つぶしに読んでいただければ幸甚である。